郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗《まみ》れた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘《われがね》のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎《ごと》に奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連を悉《ことごと》く引捉《ひっとら》えて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端《としは》も行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。
その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。
「現在(大正三年頃)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔《おとな》しい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。熊本県の壮士と玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳《あおやぎ》の二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領で某《なにがし》という名高い強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒を強《し》いようとした。頭山は一滴もイカンので黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領の某《なにがし》がなおも、無理に杯を押付ける。双方の壮士が互い違いに坐っているので互いに肩臂《かたひじ》を張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後から引掴むと、杯盤の並んだ上を一気に梯子段の処まで引摺って来て、向う向きに突き落した。そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て『サア皆。飲み直そう』と云うた時には大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満と自分《わし》と三人は並んで県庁の裏の獄舎《ごくや》で木馬責めにかけられた。背中の三角になった木馬に跨《またが》らせられて腰に荒縄を結び、その荒縄に一つ宛《ずつ》、漬物石を結び付けてダンダン数を殖《ふ》やすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つ
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