せず、如何なる勢力をも眼中に措《お》かない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。
 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為《うんい》するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。

 明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑《にんじんばたけ》という処に、高場乱子《たかばらんこ》女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。彼《か》の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村|望東尼《ぼうとうに》とは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪《おとこがみ》の総髪に結び、馬乗袴《うまのりばかま》に人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命《いのち》知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーが辷《すべ》ったの、女学生のキミ・ボクが転んだの候《そうろう》といったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥《ちなまぐさ》い維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。
 わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対する炬《かがりび》の如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。
 その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。
「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨《めしたき》や、買物のお使いに遣られた。しかし自分《わし》はまだ子供で飯が爨《た》けんじゃったけにイツモ走り使いに逐《お》いまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。
 自分《わし》の同門に松浦|愚《おろか》という少年が居った。こいつは学問は一向|出来《でけ》ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分《わ
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