頭山満氏黙々として箸《はし》を置いた。
「モウ良《え》え。お茶……」

 頭山翁の逸話は数限りもない。別に一冊の書物になっている位だからここにはあまり人の知らないものばかりを選んで書いた。あんまり書き続けているうちに、諸君の神経衰弱が全癒《なお》り過ぎては却《かえ》って有害だからこの辺で大略する。
 次は現代に於ける快人中の快人、杉山茂丸翁に触れて見よう。
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   杉山茂丸


 杉山|茂丸《しげまる》なる人物が現代の政界にドレ位の勢力を持っているか、筆者は正直のところ、全然知らない。どんな経歴を以て、如何なる体験を潜りつつ、あの物すごい智力と、不屈不撓《ふくつふとう》の意力とを養い得て来たかというような事すら知らない。恐らく世間でも知っている人はあるまいと思われるので、筆者が知っているのは、そこに評価の不可能な彼……杉山茂丸の真面目《しんめんもく》がスタートしている事と、同時に、そうであるにも拘《かかわ》らず、その古今の名探偵以上の智力と、魅力とをもって、政界の裡面を縦横ムジンに馳けまわり、馳け悩まして行く、その怪活躍ぶりが今日《こんにち》まで、頭山満翁と同様に、新青年誌上に紹介されないのは嘘だという事を知っているのみである。

 杉山茂丸は福岡藩の儒者の長男として生れた。そうして維新改革後、父母と共に先祖伝来の知行所に引込み、そこで自ら田を作り、鍬《くわ》の柄《え》や下駄を製作し、又は父から授かった漢学を父の子弟に講義し、小学校の先生もつとめた事もあるという。その他の智識としては馬琴《ばきん》、為永《ためなが》の小説や経国美談、浮城《うきしろ》物語を愛読し、ルッソーの民約篇とかを多少|噛《かじ》っただけである。中村|正直《まさなお》訳の西国立志篇を読んだか読まぬかはまだ聞いた事がないが、いずれにしても杉山茂丸事、其日庵主《きじつあんしゅ》の智情意を培《やしな》った精彩が、右に述べたような漢学|一《ひ》と通りと、馬琴、為永、経国美談、浮城物語、西国立志篇程度のもので、これに、後年になって学んだ義太夫の造詣《ぞうけい》と、聞き噛り式に学んだ禅語の情解的智識を加えたら、彼の精神生活の由来するところを掴むのは、さまで骨の折れる仕事ではあるまい。勿論彼の先天的に持って生まれた智力と、勇気は別問題にしての話である。

 明治と共に生れ、明治と共に老い
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