じゃ。その後、宮川は牛乳屋をやっておったが、まだ元気で居るかのう。俺に弁護士になれと云うた奴は彼奴《あいつ》一人じゃ」
 又或時傍の骨格逞しい眼付きの凄い老人に筆者を引合わせて曰く、
「この男は加波山《かばさん》事件の生残りじゃ。今でも、良《え》え荷物(国事犯的仕事。もしくは暗殺相手の意)があれば直ぐに引っ担いで行く男じゃ」

「西郷南洲の旧宅を訪うたところが、川口|雪蓬《せつほう》という有名な八釜《やかま》し屋の爺《おやじ》が居った。ドケナ(如何なる)名士が来ても頭ゴナシに叱り飛ばして追い返すという話じゃったが、俺は南洲の遺愛の机の上に在る大塩平八郎の洗心洞※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]記《せんしんどうさつき》を引っ掴んで懐中《ふところ》に入れて来た。それは南洲が自身で朱筆を入れた珍らしいものじゃったが、その爺《おやじ》が鬼のようになって飛びかかって来る奴を、グッと睨み付けてサッサと持って来た。それから俺は日本廻国をはじめて越後まで行くうちに、とうとうその本を読み終ったので、叮嚀《ていねい》に礼を云うて送り返しておいたが、ちょっと面白い本じゃったよ」

 これ程の豪傑、頭山満氏がタッタ一つ屁古垂《へこた》れた話が残っているから面白い。
 その日本漫遊の途次、越後路まで来ると行けども行けども人家の無い一本道にさしかかった。同伴者がペコペコに腹が減っていたのだから無論、大食漢の頭山満氏も空腹を感じていたに相違ないのであるが、何しろ飯屋は愚か、百姓家すら見当らないので、皆空腹を抱えながら日の暮れ方まで歩き続けた。
 そのうちに、やっと一軒の汚ない茶屋が路傍《みちばた》に在るのを発見したので、一行は大喜びで腰をかけて、何よりも先に飯を命じた。ちょうど頭山満氏が第一パイ目の飯を喰い終るか終らない頃、その茶屋の赤ん坊が、頭山満氏のお膳の上の副食物を眼がけて這いかかって来るうちに、すこしばかり立上ったと思うと、お膳の横に夥しい粘液を垂れ流し、その上に坐って泣き出した。
 それと見た茶屋の女房が、直ぐに走り上って来て、何かペチャクチャ云い訳をしながら、自分の前垂れを外して、その赤ん坊の尻を拭い上げて、その粘液の全部を前垂れにグシャグシャと包んで上り口から投げ棄てると、そのまま臭気芬々たる右手を頭山満氏の前に差出した。
「ヘイ。あなた、お給仕しましょう。もう一杯……
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