乳類……」
「まあ待ちなさい。それじゃけに鯨は人間と同じこと、三々九度でも新婚旅行でも何でもする。私ゃ大事な研究と思うたけに、実地について見物して来た。しかも生命《いのち》がけで……」
「アラ。まあ。アンタ見て来なさったと……」
「お前たちに見せてやりたかったなあ。その仲の良《え》え事というものは……お前たちは人間に生れながら新婚旅行なんてした事あ在《あ》るめえ」
「アラ。済まんなあ。新婚旅行なら毎晩の事じゃが」
「アハハ。措《お》きなはれ。阿呆《あほ》らしい」
「阿呆らしいどころじゃない。権兵衛が種蒔きなら俺でも踊るが、鯨のタネ蒔きバッカリは真似が出来ん。これも学問研究の一つと思うて、生命《いのち》がけで傍《にき》へ寄って見たが、その情愛の深いことというもんなア……あの通りのノッペラボーの姿しとるばってん、その色気のある事チュタラなあ。ちょっとこげな風に(以下仁三郎|懐手《ふところで》をして鯨の身振り)」
「アハハハハ……」「イヒヒヒ」
「オイ仁三郎……大概にせんかコラ……」
「海の上じゃけに構わん。牡も牝も涎《よだれ》を流いて……」
「アラッ。まあ。鯨が涎をば流すかいな……」
「流すにも何にもハンボン・エッキスちうて欝紺色《うこんいろ》のネバネバした涎をば多量《したたか》に流す」
「……まあ。イヤラシイ。呆れた」
「ハンボン・エキス……ハハア。リウマチの薬と違いますか」
 と武谷博士が大真面目で質問した。
「違います……そのハンボン・エキスの嗅《くさ》い事というたなら鼻毛が立枯れする位で、それを工合良うビール瓶に詰めて、長崎の仏蘭西《フランス》人に売りますと、一本一万円ぐらいに売れますなあ。つまり世界第一等の色気の深い香水の材料《たね》になります訳で、今の林君の話のスカン何とかチュウ処の鯨よりも日本の鯨の新婚旅行の涎の方が何層倍、濃厚《みご》いそうで……」
「オイオイ仁三郎……ヨタもいい加減にしろ」
 林技師がタマリかねて口を出した。
「ヨタでも座頭唄でもない。仏蘭西の香水は世界一じゃろうが」
「……そ……それはそうだが……」
「それ見なさい。それは秘密に鯨の涎をば使いよるげに世界一たい。自分の知らん事あ、何でも嘘言《ソラゴト》と思いなさんな」
「……フーム。何だか怪しいな」
「怪しいにも何も、私は、そのヨダレが欲しさに生命《いのち》がけでモートル船に乗って随《
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