はアンマリ長生きせん方が良《え》えと思いますなあ。人間一代山は見えとる。長生きしようなんて考えるだけで寿命が縮まるなあ。八代さん。美味《うま》い酒をば飲むだけ飲うで、若い女子《こども》は抱くだけ抱いて、それでも生きとれあ仕様がない。又、明日《あした》の魚は糶《せ》るだけの話たい……なあ武谷先生……」
 八代閣下と武谷博士がグウとも云えないまま苦々しい顔になった。社交家の杉山茂丸氏が透《す》かさず話題を転じた。鍋の中でグツグツ煮えている鯨のスキ焼の一片を挟み上げて令弟、林駒生技師に提示した。
「オイ。駒生。この肉は鯨の全体でドコの肉に当るのかね」
 サア事だ。林水産狂技師の得意の話題に触れたのだ。油紙に火が附いた以上の雄弁の大光焔がどうして燃上らずにおられよう。八代大将の松葉も、湊屋仁三郎の短命術も太陽の前の星の如くに光を失わずにはおられなかった。
「そもそも鯨というものは」……というので咳《がい》一咳。先ず明治二十年代の郡司大尉の露領沿海州荒しから始まって、肥後の五島列島から慶南、忠清、咸竟《かんきょう》南北道、図們江《ツーメンキャン》、沿海州、樺太《からふと》、千島、オホーツク海、白令《ベーリング》海、アリュウシャン群島に到る暖流、寒流の温度百余個所をノート無しでスラスラと列挙し、そこに浮游する褐藻《かっそう》、緑藻《りょくそう》の分布、回游魚の習性を根拠とする鯨群の遊弋《ゆうよく》方向に及び、日本の新旧漁法をスカンジナビヤ半島の様式に比較し、各種の鯨の肉、骨、臓器、油の用途、価格、販路、英領|加奈陀《カナダ》との競争状態といったような各項に亘って無慮、数千万語、手を挙げ眉を展《の》ばして熱弁する事、約二時間半、夕食が終って、電燈が灯《つ》いてもまだ結論が附かない。やっと二度目のお茶が出てから、
「今の鯨の肉は、鯨の尾の附根に当る処で、肉の層がアーチ型になっている処です。鯨肉の中でも極上|飛切《とびきり》の処で、小鳥や牛肉でも追付かない無上の珍味だったのです」
 という結論が附いた。しかし残念な事にこの時には流石《さすが》に謹厳剛直の国家的代表者、八代大将閣下も、武谷広博士も完全に伸びてしまっていた。勿論、二人とも最初は林技師の蘊蓄《うんちく》の物凄いのに仰天して膝を乗出して傾聴していたものであったが林技師大得意のスカンジナビヤ半島談あたりからポツポツ退屈し初めた
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