の缶詰製造を思い立ったが、慣れない商売の悲しさ、缶の製造業者に資本を喰われて、忽ち大失敗の大失脚。スッテンテンの無一物となった三十八年の十一月の末、裾縫《すそぬい》の切れた浴衣一枚で朝鮮に逃げ渡り釜山《ふざん》漁業組合本部に親友林|駒生《こまお》氏を訪れた。林駒生氏は本伝第二回に紹介した杉山茂丸氏の末弟で、令兄とは雲泥、霄壌《しょうじょう》も啻《ただ》ならざる正直一本槍の愚直漢として、歴代総督のお気に入り、御引立を蒙っていた統監府の前技師であった。左《さ》はその直話である。
「ヨオ。仁三郎か。よく来た……と云いたいが何というザマだ。この寒いのに浴衣一枚とは……」
「ウム。俺《おら》あ途方もない幽霊に附纏われた御蔭で、この通りスッテンテンに落ぶれて来た。何とかしてくれい」
「フウン。幽霊……貴様の事ならイズレ女の幽霊か、金《かね》の幽霊じゃろ」
「違う。金や女の幽霊なら、お茶の子サイサイ狃《な》れ切っとるが、今度の奴は特別|誂《あつら》えの日本の水雷艇みたような奴じゃ。流石《さすが》のバルチック艦隊も振放しかねて浦塩《うらじお》のドックに這入り損のうとる。その執拗《しつこ》い事というものは……」
「フウン。そんなに執拗い幽霊か」
「執拗いにも何も話にならん。トテモ安閑として内地には居《お》られん」
「一体何の幽霊かいね」
「缶詰の幽霊たい。ほかの幽霊と違うて缶詰の幽霊じゃけに、いつまでも腐らん。その執拗い事というものは……呆れた……」
愚直な林氏は茲《ここ》に於て怫然《ふつぜん》色を作《な》した。
「一体貴様は俺をヒヤカシに来たのか。それとも助けてもらいに来たのか」
「正真正銘、真剣に助けてもらいに来たのじゃないか。これ見い。この寒空に浴衣のお尻がバルチック艦隊……睾丸のロゼスト・ウイスキー閣下が、白旗の蔭で一縮みになっとる。どうかして浦塩更紗《うらじおさらさ》のドックに入れてもらおうと思うて……」
「馬鹿……大概にしろ。この忙しい事務所に来て、仁輪加を初める奴があるか……」
しかし篠崎仁三郎はどこへ行ってもこの調子であった。魚市場の若い連中が何かの原因でストライキを起して、幹部連中が持てあましている場面でも湊屋仁三郎が出て行くと一ペンに大笑いになって片付いた。
「貴様は○○のような奴じゃ。撫でれば撫でる程、イキリ立って来る。見っともない」
結局、彼にとっては
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