、博多語が日本の標準語でないために、その洒脱な言葉癖をスケッチしてピントを合わせる事が出来ないのが、千秋の遺憾である。
 同君の経歴や、戸籍に関する調査は面倒臭いから一切ヌキにして、イキナリ同君の真面目《しんめんもく》に接しよう。

 筆者が九州日報の記者時代、同君を博多旧魚市場に訪問して「博多ッ子の本領」なる話題について質問した時の事である。短躯肥満、童顔豊頬にして眉間に小豆《あずき》大の疣《いぼ》を印《いん》したミナト屋の大将は快然として鉢巻を取りつつ、魚鱗《うろこ》の散乱した糶台《ばんだい》に胡座《あぐら》を掻き直した。競場《せりば》で鍛い上げた胴間《どうま》声を揺すって湊屋一流の怪長広舌を揮い始めた。
「ヘエ。貴方《あなた》は新聞記者さん……ヘエ。結構な御商売だすなあ。社会の木魚タタキ。無冠の太夫……私共のような学問の無いものにゃ勤まりまっせん。この間も店の小僧に『キネマ・ファンたあ何の事かいなア』て聞かれましたけに、西洋の長唄の先生の事じゃろうて教えておきましたれア違いますそうで。キネマ・ファンちう者は日本にも居るそうで。私は又、杵屋《きねや》勘五郎が風邪引いたかと思うておりましたが……アハハハ。
 魚市場の商売ナンテいうものは学問があっちゃ出来まっせん。早よう云うてみたなら詐欺《インチキ》と盗人《ぬすと》の混血児《あいのこ》だすなあ。商売の中でも一番商売らしい商売かも知れませんが……。
 第一、生魚《しなもの》をば持って来る漁師が、漁獲高《とれだか》を数えて持って来る者は一人も居りまっせん。沖で引っかかった鯖《さば》なら鯖、小鯛《こだい》なら小鯛をば、穫れたら穫《と》れただけ船に積んでエッサアエッサアと市場の下へ漕ぎ付けます。アトは見張りの若い者か何か一人残って、櫓櫂《ろかい》を引上げてそこいらの縄暖簾《なわのれん》に飲みげに行きます。
 その舟の中の魚を数え上げるのは市場の若い者で、両手で五匹ぐらいずつ一掴みにして……ええ。シトシトシト。フタフタ。ミスミス。ヨスヨスヨスと云いおる中《うち》に、三匹か五匹ぐらいはチャンと余計に数えております。永年数え慣れておりますケン十人見張っておりましても同じ事で、〆《しめ》て千とか一万とかになった時には、二割から三割ぐらい余分に取込んでおります。
 そいつを私が糶台《ばんだい》に並べて、
『うわアリャリャリャ。拳々《
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