には何一つ引っかかって来ない。新聞にはその大捜索の状況を写真にまで出したが、吾々はただ、そうして笑われているような気がしたばっかりだった。
 とうとう事件発生後、三個月目に完全な迷宮入り、捜索打切の宣告を聞いた時の残念さ、無念さ……それは絶対にお役目|気質《かたぎ》とか何とかいうもんじゃなかったよ。吾々仲間の根性とでもいおうか。事件の筋道が尻切《しりきり》トンボになって、有耶無耶《うやむや》になった不愉快さといったらないね。家《うち》へ帰っても二三日は飯が不味《まず》くて嬶《かかあ》を相手に癇癪《かんしゃく》ばかり起していたもんだが……むろん初めの騒ぎが大きかっただけに、警視庁が新聞からメチャメチャに野次り倒された事は云う迄もない。しかし事実は文字通りに「警視庁の無能」「犯人大成功」なんだからチューの音《ね》も出なかった訳だよ。
 ところが、こうした徹底的な迷宮事件……手がかりのなくなった完全犯罪が、それから一年も経った後《のち》に、思いがけない愛子の非道《ひど》い近視眼のお蔭で目星が付いたんだから皮肉だろう。
 不思議……そうだねえ。ちょっと聞くと、ずいぶん不思議な、神秘的な話に聞えるだろう。ところが事実は何でもない。何ともいえない人情に絡んだ憐れな話なんだ。
 ちょうどそれから丸一年経った明治四十二年の、やはり四月の中頃の事だった。むろん次から次に起る事件に逐《お》われて、金兵衛殺しなんか忘れている時分だったが……。
 雨はショボショボ降るし、事件も何もなし……というので、仲間と一緒に警視庁の溜りで雑談をしていると、給仕が面会人を取次いで来た。
「築地の友口愛子……大至急お眼に掛りたい……」
 と云って小さな名刺を一枚渡した。
 トタンにドキンとしたね。一年前の苦心をズラリと思い出しながら慌てて立上ったよ。コンナ場合に、コンナ調子でヒョッコリ面会を求めに来る事件の中の女は十中八九、何かしら重大な手がかりを持って来るものなんだ。
 仲間に冷やかされながら例の面会室に来てみると、疑いもない愛子がチャント丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った野暮《やぼ》ったい奥様風で、椅子に腰をかけている。よほど心配な事があると見えて、顔色が真青に窶《やつ》れている。おまけに妙にオドオドした眼付でこっちを見る表情に、昔のような人なつこい愛くるしさがアトカタもないようだ。
 占《し》めた……と思いながら何喰わぬ顔で話を聞いてみると、愛子は金兵衛に死別《しにわか》れてから、芸妓《げいしゃ》を廃業《やめ》て、義理の母親《おふくろ》と一緒に煙草屋専門で遣ってみた。すると近所の会社員や、工場の職人たちが盛んに買いに来てくれるので、結構やって行ける事がわかった。しかし一方に養母《おふくろ》が、芝居と、信心と、寝酒の道楽を初めて、死んだ金兵衛の伝でグングン臍繰《へそくり》をカスリ取る上に、良い縁談をみんな断ってしまうので、愛子は朝から晩まで店の稼ぎと所帯の苦労に逐《お》われて、この頃はスッカリ窶《やつ》れてしまった……というような話で……つまり愛子は生れてから死ぬまで絞り取られるように出来ていた女なんだね。……それから愛子はオズオズと一通の手紙を出して、これを読んでくれと云うんだ。
 俺は何かの脅迫状じゃないかと思って半分失望しいしい、その手紙を開いてみたら大違いだった。便箋三枚に製図用の紫インキで綺麗に、細かく、ベタ一面に書いてあるんだ。参考品の中に保存してあるがね。見せてやろうか……ウン……こっちへ来てみたまえ。この手紙だ。

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「前文御めん下さい。僕は貴女《あなた》に感謝しなければなりません。昨日《きのう》偶然に僕と、貴女とあすこで二人|切《きり》になった事を、貴女は記憶しておられるでしょう。あの時、貴女の横に腰をかけていたのは警視庁の思想犯係の刑事だったのです。そう気付いた時に僕はモウ絶体絶命の立場にいる事を知りました。貴女の前の御主人の事を根掘り、葉掘り聞いた僕の顔を貴女は記憶しておられる筈でしたから。
 そればかりでなく僕は、貴女が苦労に窶《やつ》れておられる姿を見てシミジミと自分の罪を思い知りました。すぐにも名乗ろうかと思いながら躊躇《ちゅうちょ》しておりましたが、その時に貴女は以前の通りの愛情の籠った眼でジイッと僕を見られただけで、そのまんま知らん顔をしておられました。貴女が僕に、どうかして無事に逃げてくれと云っておられる無言の気持がよくわかりました。
 ああ。あの時の気持。僕の感謝の気持を、どうしたら貴女にお伝え出来ましょう。
 貴女の前の御主人金兵衛は悪魔だったのです。貴女のそうした涙ぐましい純潔な心ばかりでなく、貴女の清浄な肉体、血液までも絞りつくそうとしている悪魔だったのです。ですから僕は、あの悪魔を懲《こ》らして貴女を
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