近眼芸妓と迷宮事件
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)材料《たね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)煙草|容《いれ》もない。
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俺の刑事生活中の面白い体験を話せって云うのか。小説の材料《たね》にするから……ふうん。折角《せっかく》だが面白い話なんかないよ。ヒネクレた事件のアトをコツコツと探りまわるんだから碌《ろく》な事はないんだ。何でも職務《しごと》となるとねえ。下らないイヤな思い出ばっかりだよ。
その下らないイヤな思い出が結構。在来《ありきたり》の名探偵大成功式の話じゃシンミリしない。恐ろしく執念深いんだなあ。
それじゃコンナのはどうだい。どうしても目星が附かないので警視庁のパリパリ連中が、みんな兜《かぶと》を脱いだ絶対の迷宮事件が一つ在るんだ。所謂《いわゆる》、完全犯罪だね。そいつが事件後丸一年目に或る芸妓《げいしゃ》のヒドイ近眼のお蔭で的確に足が付いた。すぐに犯人が捕まったってえ話はどうだい。珍らしいかね。実はこれは吾々にとっちゃ実に詰まらん失敗談だがね。探偵談なんていうのも恥かしいくらいトンチンカンな、単簡明瞭な事件なんだが……。
なお面白い……ずるいなあ、とうとう話させられるか。
もう古い話だ。明治四十一年てんだから日露戦争が済んだアトだ。幸徳秋水の大逆事件の前だっけね。チット古過ぎるかね。……構わんか……。
ずいぶん古い話だがこの事件ばっかりは、どうしても忘れられない変テコな印象がハッキリ残っているんだよ。何故だかわからないが、メチャメチャになった被害者の顔とか、加害者の若い青白い笑い顔とか、その間に挟まった芸妓のオドオドした近眼とかいうものが、不思議なほどハッキリと眼に残っている。
話の筋道は頗《すこぶ》る簡単だがね。ほかの事件と違って何だか、こう考えさせられる深刻な、シンミリしたところがあるように思うんだ。
事の起りは在《あ》り来《きた》りの殺人事件だった。
飯田町の或る材木屋の主人で、苗字は忘れたが金兵衛という男が、自分の家の材木置場で殺《や》られたんだ。天神様の御縁日の翌《あく》る日だったから二十六日だろう。天気のいい朝だったっけが、行ってみると非道《ひど》い殺され方でね。
五十恰好の禿頭《はげあたま》のデップリした親爺《おやじ》で、縞《しま》の羽織に前垂《まえだれ》、雪駄《せった》という、お定《き》まりの町家《まちや》の旦那風だったが、帽子を冠らないで懐手《ふところで》をしたまま、自分の家《うち》の材木置場から、飯田橋の停車場の方へ抜けて行く途中の、鋸屑《おがくず》のフワフワ積った小径の上に、コロリと俯伏《うつぶ》せに倒れている……材木の蔭から躍り出た兇漢に、アッという間もなく脳天を喰らわされたんだね。額《ひたい》から眼鼻の間へかけて一直線に石榴《ざくろ》みたいにブチ割られて、脳味噌がハミ出している。ちょっと見たところ、出血の量が非常に少ないと思ったが、顔の下の湿った鋸屑を掘ってみると、下の方ほど真黒くドロドロになっている。死後推定時間は十時間だったと思うが、倒れたまま、動かなかったらしい。文句なしの即死だね。ところでそこまでは判明したが、その他の事が全くわからない。
その頃まではどこの材木置場にも木挽《こびき》が活躍していたので、現場の周囲が随分遠くまで新らしい鋸屑だらけだ。犯人もそこを狙って仕事をしたものらしく足跡が全くわからないのには弱ったよ。いくらでも足跡が在るには在るんだが、ハッキリしたのは一つもない。屍体《したい》の近くに二個所ばかり強く踏み躪《にじ》ってあるのが兇行当時の犯人の足跡《もの》らしかったが、単に下駄じゃないという事がわかるだけで推定材料にはテンデならない。被害者の懐中物は無尽講《むじんこう》の帳面が二冊キリ。蟇口《がまぐち》も煙草|容《いれ》もない。……という極めてサッパリした現場なんだ。
その時の現場に出張していた連中はかなり大勢だった。少々大袈裟だったかも知れないが、仕事が閑散だったせいだろう。最初に麹町《こうじまち》署から来た四五人のほかに警視庁の第一捜査係長、刑事部長、警部補、巡査、刑事が四人、鑑識課の二三人、警察医が二名、予審判事と書記というのだから、殆んど全国の警察でも一粒|選《より》の鋭い眼玉が、そこいら中を一生懸命に探しまわったもんだが、何一つ手がかりが見当らない。ただその後の屍体解剖で、額にブチ込んだ兇器が厚さ一分位、推定一尺長さ以上の一直線の重たい物体であった。ちょうど鉈《なた》の背中みたようなものだった。……という事が判明しただけだったが、しかもこの鉈の背中という説明のし方が、アトから
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