救い出し、同時に僕の外国|行《ゆき》の旅費を作ろうと決心してしまったのです。それから一個月ばかりの間金兵衛を跟《つ》けまわして、とうとう完全なチャンスを掴んだのです。しかし外遊はしませんでした。金兵衛から奪ったお金は皆、党の運動資金に費《つか》ってしまいました。
 僕は貴女の思想から見ればドンナに咀《のろ》われても足りない人間です。貴女の御主人の仇敵です。社会の公敵です。貴女の不運の原因を作った人間です。それを貴女は知らん顔をして見のがして下すったのです。
 ああ。貴女はあの、タッタ一夜の純情を、一年後の今日までも僕に対して注いで下すったのです。僕を愛していて下すったのです。
 僕は生れて初めて貴女によって人間の純情の貴さを知ったのです。唯物主義一点|張《ばり》の血も涙もない生涯を送ろうと思っていた僕の信念が、貴女のお蔭で根柢からグラ付き初めたのです。
 僕はキチガイになりそうです。
 僕はモウ二度と貴女にお眼にかからない処へ逃げて行きます。裏切者にならないために、貴女の純真な、切ない愛情をタッタ一つ抱いて、満腔《まんこう》の感謝を捧げて死んで行きたいために。
 僕は裏切者となって、貴女と結婚して、貴女をエタイのわからない不幸な運命に陥れるに忍びません。
 どうぞ幸福に幸福に暮して下さい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]淋しい社会主義者より
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  友口愛子様
 この手紙は直ぐに焼いて下さい。貴女の御親切に信頼します。
[#ここで字下げ終わり]

 この手紙を読み終ると直ぐに、これは一刻も猶予ならんと思って立上りかけた……が……又思い直して腰を落付けた。この手紙を持って来た愛子の態度が、あんまり不思議なので……自分に好いている男を一人死刑にするような遣り方なのに……正直者の愛子がソンナ残酷な事をする筈はないと思ったので、念のために今一度訊問してみる気になった。社会主義者一流の計略じゃないかしらんという疑いも起ったからね。
「ふうむ。愛子さん……」
「ハイ……」
「あんたはこの手紙の主《ぬし》に心当りがあるのかね」
 ビックリしたように眼をパチパチさせた愛子は丸髷を軽く左右に振った。
「いいえ。ちっとも存じません。何を書いてあるのか読めないものですから。字があんまり細かくて……」
 俺は唖然となってしまった。
「ナアンダ。まだ読んでいないのかい」
 愛子は丸髷に手を遣りながら淋しく笑った。
「ハイ。コンナような手紙が、よく男の方から参りますので、そのたんびに母親《おっかさん》に読んでもらっておりますが、この手紙の文句ばっかりは、わからないと母親《おっかさん》が云うもんですから……処々《ところどころ》拾い読みしてもらってもチンプンカンプンですから……ただ金兵衛さんの名前が所々《ところどころ》に書いてあって、社会主義者が死ぬっていうような事が書いてあるって云うもんですから、何だか怖くなりまして……ほかの方に読んで頂くのは剣呑《けんのん》だって母親《おっかさん》が云うもんですから、大急ぎで貴方に読んで頂きに……」
 俺は思わず一|丈《じょう》ばかりの溜息を吐《つ》いたよ。滑稽な気持ちなんかミジンも感じなかったから不思議だよ。これ程の恐ろしい作用《はたらき》を現わした愛子の、何も知らないでオドオドしている近眼を暫くの間茫然と見詰めていたね。
「ふうむ。あんたはこの手紙で見ると、金兵衛さんが死ぬる一個月《ひとつき》ぐらい前に、どこかの待合で、若いお客と差しでシンミリした事があるんだね」
 愛子の顔色が見る見る真青になった。この前に訊問した事をドウやら思い出したらしいんだ。それから又、忽ち耳の附け根まで赤くなったが俺の顔を見ながらオズオズと点頭《うなず》いたものだ。
「ね。あるだろう。思い出したろう」
 愛子はいよいよ真赤になって俯向《うつむ》いてしまった。俺は胸をドキドキさせながら彼女に対して訊問の秘術を尽し初めたが、彼女は手もなく釣り込まれてポツポツ話し出した。
「ハイ。やっと思い出しました。それは二十七八の若旦那風の人でした。待合ではオオさんと云っておりましたが、お名前は大深さんと云いましたか……お召物からお金遣いまでサッパリした方で、いいえ。手は両方とも職工らしくない、白い綺麗な手でした。お酒が少しばかりまわりますと、親切に色々と妾《あたし》の身上《みのうえ》をお尋ねになりましたので、何もかも真個《ほんと》の事をスッカリ話しました。金兵衛さんの事までもスッカリ……毎月二十五日が本郷の無尽講《むじん》の寄合なので、帳面とお金を持って行かれる。その帰りに電車で妾《あたし》の所へ見える事まで話しました。その若い方は何でも、信州の或るお金持の御養子さんで、東京へ来て高等工業学校へ這入ったが、養家が破産した
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