銀次は、広間の事務室の卓子《テーブル》の上に飛上った。手に触れた硯箱《すずりばこ》を追い縋《すが》って来る小女めがけてタタキ付けると、書類を蹴散らしながら机の上を一足飛びに玄関へ出た。その腰に獅噛《しが》み付いた小女は、いつの間に奪い取ったものか銀次の匕首《あいくち》を、うしろ抱きにした銀次の肋骨《あばら》の下へ深く刺し込んだまま、ズルズルと引擦られて行った。
「父サンの仇讐《かたき》……丹波小僧……思い知ったか……丹波小僧……」
と叫び続けていた。そうして銀次と絡《から》み合ったまま玄関の石段を真逆様《まっさかさま》に転がり落ちると、小女は独りでムックリと起き上って、頭から引っ冠《かむ》せられた銀次の着物と帯をはね除《の》けた。倒れた椅子を避《よ》け避け追いかけて来る警官を振り返って、擦り剥けた顔でニッコリと笑った。
それから血に染まった匕首と両手を、向家《むかい》のペンペン草を生やした屋根の上の青空の方向に高く挙げて力一パイ叫んだ。悲痛な甲高い声で、
「……皆の衆……皆の衆すみまっせん。私はお花じゃが……もう私は帰られんけに……帰られんけに……」
と云ううちに、銀次の身体《からだ》に腰をかけたまま、血染の匕首を両袖で捲いて、白い自分の首筋にズップリと突込んだ。そのまま涙をハラハラと流して、唇からプルプルと血を吐き吐きグッタリとなった。銀次と折重なって倒れようとしたところを走りかかって来た巡査たちに抱き止められた。
「馬鹿ッ……」
「何をスッか……」
「馬鹿ッ……」
という巡査たちの怒号のうちに、太い血の筋を引いた二つの死骸が、事務室の中へ引っぱり込まれた。
警察の門前から、玄関先まで間もなく人の黒山になったが、やがて走り出て来た巡査が、群集を追払って、表門と玄関をピッタリと閉め切ってしまった。
その中《うち》に玄関の石段と敷石に流れた夥しい血が、小使の手で洗い流されてしまうと皆立去ってしまったが、それでも、
「何じゃったろかい」
「何じゃったろ何じゃったろ」
と口々に云い交わしながら、近所の人々は皆、表に立っていた。
「須崎《すさき》監獄へ行って取調べてみますと、どうも意外な事ばかりで驚きました」
出張から帰って来たらしい胡麻塩鬚の巡査部長が、大兵肥満の署長の前に、直立不動の姿勢を執《と》って報告をしていた。事件後、四五日目の正午頃の事であった。
「第一、先般、御承知の一パイ屋の藤六|老爺《おやじ》が死にました時に仏壇の中から古い人間の頭蓋骨と、麦の黒穂《くろんぼ》が出た事は、御記憶で御座いましょう」
署長はこの辺の炭坑主が寄附した巨大な、革張りの安楽椅子の中から鷹揚《おうよう》にうなずいて見せた。
「ウムウム。知っとるどころではない。それについてここの小学校の校長が……知っとるじゃろう……あの総髪に天神髯《てんじんひげ》の……」
「存じております。旧藩時代からの蘭学者の家柄とか申しておりましたが」
「ウムウム、中々の物識りという話じゃが、あの男がこの間、避病院の落成式の時にこげな事を話しよった。……人間の舎利甲兵衛《しゃりこうべえ》に麦の黒穂《くろんぼ》を上げて祭るのは悪魔を信心しとる証拠で、ずうと昔から耶蘇《やそ》教に反対するユダヤ人の中に行われている一つの宗教じゃげな。ユダヤ人ちうのは日本の××のような奴どもで、舎利甲兵衛に黒穂《くろんぼ》を上げておきさえすれば、如何《どげ》な前科があっても曝《ば》れる気遣いは無いという……つまり一種の禁厭《まじない》じゃのう。その上に金が思う通りに溜まって一生安楽に暮されるという一種の邪宗門で、切支丹《きりしたん》が日本に這入って来るのと同じ頃に伝わって来て、九州地方の山窩《さんか》とか、××とか、いうものの中に行われておったという話じゃ」
「ヘエッ。それは初耳で……私が調べて参りました話と符合するところがありますようで……」
「フウム。それは面白いのう。あの藤六が死んで、舎利甲兵衛と黒穂《くろんぼ》の話が評判になりよった時分に、ちょうど避病院の落成式があったでのう。校長の奴、大得意で話しよったものじゃが、何でもこの直方《のうがた》地方は昔からの山窩の巣窟じゃったそうでのう。東の方は小倉の小笠原、西は筑前の黒田から逐《お》われた山窩どもが皆、この荒涼たる遠賀川の流域を眼ざして集まって来て、そこここに部落を作っておったものじゃそうな。藤六はやっぱりその山窩の流れを酌《く》む者じゃったに違わんと校長は云いおったがのう。吾輩は元来、山窩という奴を虫が好かんで……悪魔を拝むだけに犬畜生とも人間ともわからぬ事をしおるでのう。ことに藤六は、あの通りの人物じゃったけに真逆《まさか》に山窩とは思われぬと思うて、格別気にも止めずにおったのじゃがのう」
「ヘエ。そのお話を今少《まち
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