夜の東京の怪……私がタッタ一人で見た……。
私は、私の周囲に迫りつつある、何とも知れない、気味のわるい、巨大《おおき》な、恐ろしいものを感じた。一刻も早く家《うち》に帰るべくスタスタと歩き出した。
その時に私の前と背後《うしろ》から、二台の自動車が音もなく近付いて来た。
……私と……。
……私の夢の……。
……結婚式当日の姿……。
私は逃げ出した。クラブの玄関へ駈け込んで、マットの上にぶッ倒れた。
「助けてくれ」
病院
私はいつの間にか頑丈《がんじょう》な鉄の檻《おり》の中に入れられている。白い金巾《かなきん》の患者服を着せられて、ガーゼの帯を捲き付けられて、コンクリートの床のまん中に大の字|型《なり》に投げ出されている。
……精神病院らしい。
しかし私は驚かなかった。そのまま声も立てずにジット考えた。ここが精神病院だとわかれば、騒いでも無駄だからである。騒げば騒ぐほど非道《ひど》い目に合う事がわかり切っているからである。おまけに今は深夜である。かなり大きい病院らしいのにコットリとも物音がしない。……騒いではいけない、憤《おこ》ってはいけない。否《いな》々。泣いても笑ってもいけないのだ。いよいよキチガイと思われるばかりだから……。
私はそろそろとコンクリートの床のまん中に坐り直した。両手を膝の上に並べて静坐をして、眼を半眼に開いて、檻の鉄棒の並んだ根元を凝視した。神経を鎮《しず》めるつもりで……。
果して私の神経はズンズンと鎮静して行った。かなり広い病院の隅から隅までシンカンとなって……。
その時であった。私が正面している鉄の檻の向うから誰か一人ポツポツと歩いて来た。それは白い診察着を着た若い男らしく、私が坐っているコンクリートの床よりも一尺ばかり高くなっている板張りの廊下を、何か考えているらしい緩やかな歩度《ほど》でコトリコトリと近付いて来るのであったが、やがて私の檻の前まで来るとピッタリと立ち止まった。そうして両手をポケットに突込んだまま、ジット私を見下しているらしく、爪先を揃えたスリッパ兼用の靴が、私の上瞼《うわまぶた》の下に並んだまま動かなくなった。
私はソロソロと顔を上げた。
その私の視界の中には、まず膝の突んがった縞《しま》のズボンと、インキの汚染《しみ》のついた診察着が這入《はい》って来た……が……それはどこかで見た事のある縞ズボンと診察着であった……と思ってチョット眼を閉じて考えたが……間もなく私はハッと気付いた。眼をまん丸く剥《む》き出して、その顔を見上げた。
それは私が予想した通りの顔であった。……青白く痩せこけて……髪毛《かみのけ》をクシャクシャに掻き乱して……無精髪《ぶしょうがみ》を蓬々《ぼうぼう》と生《は》やして……憂鬱な黒い瞳《め》を伏せた……受難のキリストじみた……。
それは私であった……嘗《かつ》てこの病院の医務局で勉強していた私に相違なかった。
私の胸が一しきりドキドキドキドキと躍り出した。そうして又ドクドクドク……コツコツコツコツと静まって行った。
診察着の背後《うしろ》の巨大な建物の上を流れ漂う銀河が、思い出したようにギラギラと輝いた。
……と……同時に私は、一切の疑問が解決したように思った。私を精神病患者にして、この檻に入れたのは、たしかにこの鉄格子の外に立っている診察着の私であった。この診察着の私は、あまりに自分の脳髄を研究し過ぎた結果、精神に異状を呈して、自分と間違えてこの私を、ここにブチ込んだものに相違なかった。この「診察着の私」さえ居なければ私は、こんなにキチガイ扱いされずとも済む私であったのだ。
そう気が付くと同時に私は思わずカッとなった。吾を忘れて、鉄檻の外の私の顔を睨み付けながら怒鳴った。
「……何しに来たんだ……貴様は……」
その声は病院中に大きな反響を作ってグルグルまわりながら消え失せて行った。しかし外の私は少しも表情を動かさなかった。診察着のポケットに両手を突込んだまま、依然として基督《キリスト》じみた憂鬱な眼付で見下しつつ、静かな、澄明《ちょうめい》な声で答えた。
「お前を見舞いに来たんだ」
私はイヨイヨカッとなった。
「……見舞いに来る必要はない。コノ馬鹿野郎……早く帰れ。そうして自分の仕事を勉強しろ……」
そういう私の荒っぽい声の反響を聞いているうちに私は、自分の眼がしらがズウーと熱くなって来るように思った……何故《なぜ》だかわからないまま……しかし外の私はイヨイヨ冷静になったらしく、その薄い唇の隅に微《かすか》な冷笑を浮かべたのであった。
「お前をこうやって監視するのが、俺の勉強なのだ。お前が完全に発狂すると同時に俺の研究も完成するのだ。……もうジキだと思うんだけれど……」
「おのれ……コノ人非人
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