怪夢
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)厳《おごそ》かに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二百|封度《ポンド》を突破すべく、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
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工場
厳《おごそ》かに明るくなって行く鉄工場の霜朝《しもあさ》である。
二三日前からコークスを焚《た》き続けた大坩堝《おおるつぼ》が、鋳物《いもの》工場の薄暗がりの中で、夕日のように熟し切っている時刻である。
黄色い電燈の下で、汽鑵《ボイラー》の圧力計指針《はり》が、二百|封度《ポンド》を突破すべく、無言の戦慄《せんりつ》を続けている数分間である。
真黒く煤《すす》けた工場の全体に、地下千|尺《しゃく》の静けさが感じられる一|刹那《せつな》である。
……そのシンカンとした一刹那が暗示する、測り知れない、ある不吉な予感……この工場が破裂してしまいそうな……。
私は悠々と腕を組み直した。そんな途方もない、想像の及ばない出来事に対する予感を、心の奥底で冷笑しつつ、高い天井のアカリ取り窓を仰いだ。そこから斜めに、青空はるかに黒煙を吐き出す煙突を見上げた。その斜《ななめ》に傾いた煙突の半面が、旭《あさひ》のオリーブ色をクッキリと輝かしながら、今にも頭の上に倒れかかって来るような錯覚の眩暈《めまい》を感じつつ、頭を強く左右に振った。
私は、私の父親が頓死《とんし》をしたために、まだ学士になったばかりの無経験のまま、この工場を受け継がせられた……そうしてタッタ今、生れて初めての実地作業を指揮すべく、引っぱり出されたのである。若い、新米《しんまい》の主人に対する職工たちの侮辱と、冷罵《れいば》とを予期させられつつ……。
しかし私の負けじ魂は、そんな不吉な予感のすべてを、腹の底の底の方へ押し隠してしまった。誇りかな気軽い態度で、バットを横啣《よこぐわ》えにしいしい、持場持場についている職工たちの白い呼吸を見まわした。
私の眼の前には巨大なフライトホイールが、黒い虹《にじ》のようにピカピカと微笑している。
その向うに消え残っている昨夜からの暗黒の中には、大小の歯車が幾個となく、無限の歯噛《はが》みをし合っている。
ピストンロッドは灰色の腕をニューと突き出したまま……。
水圧|打鋲機《だびょうき》は天井裏の暗がりを睨《にら》み上げたまま……。
スチームハムマーは片足を持ち上げたまま……。
……すべてが超自然の巨大な馬力と、物理原則が生む確信とを百パーセントに身構えて、私の命令|一下《いっか》を待つべく、飽くまでも静まりかえっている。
……シイ――イイ……という音がどこからともなく聞こえるのは、セーフチーバルブの唇を洩《も》るスチームの音であろう……それとも私の耳の底の鳴る音か……。
私の背筋を或る力が伝わった。右手が自《おのずか》ら高く揚《あが》った。
職工長がうなずいて去った。
……極めて徐々に……徐々に……工場内に重なり合った一切の機械が眼醒《めざ》めはじめる。
工場の隅から隅まで、スチームが行き渡り初めたのだ。
そうして次第次第に早く……遂《つい》には眼にも止まらぬ鉄の眩覚が私の周囲から一時に渦巻き起る。……人間……狂人……超人……野獣……猛獣……怪獣……巨獣……それらの一切の力を物ともせぬ鉄の怒号……如何《いか》なる偉大なる精神をも一瞬の中《うち》に恐怖と死の錯覚の中に誘い込まねば措《お》かぬ真黒な、残忍冷酷な呻吟《しんぎん》が、到る処に転がりまわる。
今までに幾人となく引き裂かれ、切り千切《ちぎ》られ、タタき付けられた女工や、幼年工の亡霊を嘲《あざけ》る響き……。
このあいだ打ち砕かれた老職工の頭蓋骨《ずがいこつ》を罵倒《ばとう》する声……。
ずっと前にヘシ折られた大男の両足を愚弄《ぐろう》する音……。
すべての生命を冷眼視し、度外視して、鉄と火との激闘に熱中させる地獄の騒音……。
はるかの木工場から咽《むせ》んで来る旋回円鋸機《せんかいえんきょき》の悲鳴は、首筋から耳の付け根を伝わって、頭髪の一本一本|毎《ごと》に沁《し》み込んで震える。あの音も数本の指と、腕と、人の若者の前額《ぜんがく》を斬り割いた。その血しぶきは今でも梁木《はりき》の胴腹に黒ずんで残っている。
私の父親は世間から狂人扱いにされていた。それは仕事にかかったが最後、昼夜ブッ通しに、血も涙もない鋼鉄色の瞳をギラギラさせる、無学な、醜怪な老職工だからであった。それがこの工場の十字架であり、誇りであると同時に、数十の鉄
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