で縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。
その頃町つづきの博多福岡では大変に押絵が流行致しましたので、町の大家なぞは、女の児《こ》が生れますと初のお節句にはみんな柴忠さんのように、お芝居の小さな舞台を作りまして、その中に押絵の人形を立てますので、三人組なれば三円、五人組なれば五円と、向うから高価《たか》い値段をきめて頼みに来ました。お母様は、そんなにお金をかけては出来がわるいと云われましても、先方で聞き入れません。それにお父様が「出来るだけの加勢は俺がしてやる」なぞと仰言って、断るのをお好きになりませんでしたので、お母様は泣く泣く引き受けておられました。その頃はお米が一|升《しょう》十銭より下で御座いましたろうか。
「米が十銭すれあサッコラサノサ」
という歌が流行《はや》っておりました位で御座いますが、そんなお金の事などは一切お父様がなすって、きょうはいくら、明日《あす》はいくらと駅逓《えきてい》局(その頃はもう郵便局と云って
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