しいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸《ぎんし》の波形の光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白いお顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っておりますばかり……筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に帰りましてから、
「面白かったか」
 と先生に聞かれましても、何一つお答えが出来なかった時の恥かしう御座いましたこと……。
 それでも私は、とうとう自分の病気を隠しおおせました。
 この胸の疵《きず》を、お医者様に見られる位なら死んだ方がいい。……イイエ。私はこの病気がだんだん非道《ひど》くなって死ぬ時が近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから……と、そんな風に思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく不思議と病気が癒《なお》ってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりましたせいでしょうと思いますけれども……。
 けれども、その時の私は何故この病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様《てんとうさま》を怨《うら》んだことで御座いました。
 それから後《のち》の私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなくピッタリと貼りつけられたように思って仕舞ったので御座います。日の目を見ることさえも恥かしく思いながらその日その日を送っていたので御座います。
「ああお母様。あなたは私を助けたいばっかりに、あんな嘘を仰言った」
 とそう思いながら涙にくれた事が幾度ありましたでしょう。中村とか、菱田とかいう文字を見かけますたんびに、私の弱い心はどんなにかハラハラと波打ちましたことでしょう。ほんとに失礼この上もない事ですけど、そのような文字が眼に這入りますたんびに私はすぐに「不義」という文字を思い出すので御座いました。時折りは、いつかしらず歌舞伎座の方を向いて歩いておりますのに心付きまして、何となく気が咎《とが》めますままにフイとほかの町すじへ外《そ》れて行きました。その気恥かしう御座いましたこと……。
 けれども、そのうちに暑中休暇が参りますと私は又、思いも寄りませぬことで、このような悲しい、浅ましい悩みから救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いてありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で御座います。
 私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日のつれづれに二階の窓からお隣りの屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬのでしょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫《ふせひめ》様が夫と立てておられる八《や》つ房《ふさ》という犬に身を触れずにみごもられた……というお話の処まで読んでしまいました。
 そのお話につきましては作者の曲亭馬琴という方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられるのでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いましたでしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事があり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じましたことでしょう。お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の身体《からだ》には、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろ[#「ほくろ」に傍点]となってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてあるでは御座いませんか。
 それは私にとりまして、それこそ眼も眩《くら》むほどの奇蹟的な喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで溜め息をしいしい読み続けたことでした。
 ――男と女とが、お互いに思い合っただけで
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