の大旦那様(大沼氏)や平川町の先生(紫紅《しこう》氏)方がお見えになって、いよいよ本当だとわかりますと僕は思わず手放しで泣き出してしまいました。そうしてこのお芝居が済んだら、あとはどうなっても構わないつもりで稽古を初めたのですが、都合のいい事に父も僕も心もちヒョロ長い方で肩幅から何からよく合っていますので、衣裳の方はあまり手を入れずに済みました。
 しかし何しろこの扮装《こしらえ》は総体で十三貫目もありましてシャグマだけでも一貫目近くあります。それをまだ芸も身体もコンマ以下の弱虫が着るのですから、平生《ふだん》だと立ち上るだけでも大変なのですが、それでも生命《いのち》がけの女の気もちになって舞台に出てみますと、不思議なくらい楽に動けますので、これは大方亡くなりました父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのだろうと思っております。云々《うんぬん》。

 私はこの時、この記事の上に突伏しまして、どんなにか泣きましたことでしょう。
 私のお母様の押絵を御覧になった貴方様のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にかけてお用いになりました、そのお心のウラをお察ししました時に、私はもう立っても居てもいられぬようになりました。
 中村半次郎様と私とは、お話にきいた事のある夫婦児《めおとご》だったに違いない。一人はお母様に似て、一人はお父様に似た双生児《ふたご》だったに違いない。そうしてお母様は私達二人をお生みになると間もなく、お父様に知れないように男の子の方を本当のお父様の処へお遣りになったので、そんな事を何もかも引き受けてお手伝いしたのは、あのオセキ婆さんだったに違いない。そうと考えるよりほかに考えようがないのをどうしましょう。
「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私のお母様を……そうして又私のお母様も……」
 と叫びかけて私はハッとしながら、自分の手で自分の口を押えました。
 今から考えますと私はどうしてこの時に発狂しなかったのでしょうと不思議に思われる位で御座います。
 いいえ。私はそれから後《のち》暫くの間、発狂していたのかも知れませぬ。その夜《よ》遅くに岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしておりました鏡の前に丸一年ぶりに坐りまして、その中に坐っておられるお母様の顔を見つめながらいつまでもいつまでも涙を流しておりました私の姿を、もしお兄様が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。
 お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はその夜《よ》から貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、その夜《よ》からの事で御座いましたから……。
 そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。
 それを奥様が御覧になって、
「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」
 とお笑いになりながら髪結《かみゆ》いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は睡《ねむ》ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。
 それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅《いっちょうら》の着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。
 お兄様が阿古屋に扮《ふん》して出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠《みは》っておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ま
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