押絵の奇蹟
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隙《すき》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|一眼《ひとめ》なりとも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間《びかん》
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看護婦さんの眠っております隙《すき》を見ましては、拙《つた》ない女文字を走らせるので御座《ござ》いますから、さぞかしお読みづらい、おわかりにくい事ばかりと存じますが、取り急ぎますままに幾重《いくえ》にもおゆるし下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]

 あれから後《のち》、お便り一つ致しませずに姿をかくしました失礼のほど、どんなにか思《おぼ》し召しておいでになりますでしょう。どう致しましたならばお詫びが叶《かな》いましょうかと思いますと胸が一パイになりまして、悲しい情ない思いに心が弱って行くばかりで御座いました。そうしてやっとの思いで一昨晩コッソリと帰京致しますと、すぐにあれから後《のち》の新聞を二三通り取り寄せまして、次から次へと繰り返して見たので御座いますが、私の事につきましていろいろと出ております新聞記事と申しますのが又いずれ一つとして私の心を責めさいなまぬものは御座いませんでした。
 あの、丸の内演芸館で催されました明治音楽会の春季大会の席上で、突然に私が喀血《かっけつ》致しまして、程近い綜合病院に入院致しますと、その夜のうちに行方《ゆくえ》不明になりました事に就《つ》きまして、新聞社や、そのほかの皆様から寄せて頂いております御同情の勿体《もったい》なさ。それから又、最後までお世話になっておりました岡沢先生御夫婦の親身も及びませぬ痛々しい御心配なぞ……そうして、そのような中に、とりわけても貴方様が、あの時から後《のち》、心ならずも貴方様から離れて行きました私の罪をお咎《とが》めになりませぬのみか、数《かず》ならぬ私の事を舞台を休んでまで御心配下さいまして、いろいろと手を尽して私の行方をお探しになっておりますうちに、思いもかけませず私と同じように喀血をなされました。そうして同じ丸の内の綜合病院に、御入院になりまして、私の名前を呼びつづけておいで遊ばすという事を「処もおなじ……」という雑報欄の記事で拝見致しました時の心苦しさ……。そうしてそれと同時にあなた様と私とが斯様《かよう》に同じ運命の手に落ちて参りまして、おなじ病気にかかって同じように血を吐く身の上になりましたことが、けっして偶然でありませぬ事を思い知りました時の空怖ろしさ……。唯さえ苦しいこの呼吸《いき》が絶え入るまで、ハンカチを絞って泣きましたことで御座いました。
 こんなになりました上は、何をおかくし致しましょう。
 私はずっと前、まだ貴方様に直接のお眼もじ致しませぬうちから、あなた様こそ只今の歌舞伎界で一番お若い、一番のお美しい女形《おやま》の名優として、外国にまでお名前の高い中村半次郎様こと、菱田新太郎様でおいで遊ばすことを、蔭ながら、よく存じておりました。
 そればかりでは御座いませぬ。
 大変に失礼な申上げようでは御座いますけれども、そのあなた様が、私と同じ年の二十三歳でおいでになりますばかりでなく、今日まで一人も婦人をお近づけになりませずに、女嫌いという評判をそのままに立て通しておいでになりましたことも、よく存じ上げておりました。
 それで、もしか致しましたならば、貴方様は御自分でも御存じのない……ただ、広い世界に私だけが、タッタ一人で存じております或る不思議な運命の糸に縛られておいでになりますので、そのために、ほかの女性をお振り向きにならないのではないかしら。……言葉をかえて申しますれば、あなた様と御一緒の運命に結びつけられる女と申しますのは、この世にたった私一人きりなのではないかしら……と、毎日毎日心の底の奥深いところで、おそれ迷いながら、今日《こんにち》まで生き永らえておりましたことで御座いました。
 とは申しますものの、貴方様方のような名高いお方のお眼に止まりそうにもない拙《つた》ないピアノ教師の身として、このような及びもつかぬ事を考えておりますことが、もしも他人にわかりましたならば、どんなにか笑われた事で御座いましょう。
 中村半次郎様こと菱田新太郎様を存じております日本中の女子は皆、おんなじ夢を見ているのだから心配する事はない。自惚《うぬぼ》れの強いのにも程があるといって死ぬ程ひやかされた事で御座いましょう。
 何事も御存じないあなた様としても、私が突然にこのような事をお耳に入れましたならば、さぞかしビックリ遊ばすことで御座いましょう。

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