「あなた様の御運命を、ずっと前から人知れず、私だけが存じ上げておりました。あなた様からの結婚の御申込みを受けますものは、私という女よりほかにおりませぬでしょうことを、くり返しくり返し想像致しまして、ふるえ、おののきつつ月日を送っておりました」
 と申し上げましたならば、そんな事があり得よう筈はないと、すぐに思し召すで御座いましょう。あとからそのような作り事をして、結婚を避けようとしているのではないかと、お疑いになるで御座いましょう。
 けれども、このような場合に作りごとを申しましてどう致しましょう。
 忘れも致しませぬ、あの丸の内演芸館内の演奏場で、私は拙ないピアノの独奏を致しておりました二日目の事で御座いました。明治音楽会の幹事をしておられます松富さんが、楽屋の入口でヒョイと私の肩をおたたきになりまして、こんな事を云われました。
「井《い》ノ口《ぐち》さん。シッカリおやんなさいよ。名優の菱田新太郎君が昨日《きのう》からたった一人であの一番うしろの席に来ておられるのですよ、新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っている、貴女《あなた》の演奏をききに来て、あなたの番が済むとサッサと帰って行かれるのですからね。たった今新聞記者が、その事を私に知らせてくれましたから、あなたはまだ、そんな事を御存じない筈だと返事をしておきましたがね。何でも大した評判になりかけているらしいですよ。ハハハハハ」
 これを承《うけたまわ》りました時の私の驚ろきは、どんなで御座いましたでしょう。今まで想像にだけ描いておりました貴方様と私との間の夢のように不思議な運命のつながりが、思いもよりませぬ晴れやかなところで、あまりにもハッキリと現実にあらわれかかって参りました恐ろしさに、私はもう夢中になってしまいました。病気と云って演奏場から逃げ出そうかしらとも思いましたくらい息苦しくなって、胸がドキドキ致して参りました。
 けれども、それまでの私は、お写真でしかあなた様にお眼にかかった事が御座いませんでしたので、せめて一《ひ》と目なりとも本当のお顔をお見上げして、この世のお名残《なご》りに致したいというような、やる瀬のない思いに引き止められまして、ワクワク致しながら「月光の曲」を弾いていたので御座いますが、そのうちに鳥打帽と背広を召して、大きな色眼鏡をおかけになった貴方様が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁にお倚《よ》りかかりになりました。
 そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでお出《い》でになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体《からだ》をお寄せになって色眼鏡を外《はず》して汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。
 そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方《ひとかた》ならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノを汚《よご》しましたために、折角《せっかく》の演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳《もうしわけ》を致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私が予《か》ねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが、まあ、何という勿体ない事で御座いましょう。
 けれども、ほんとの事を申しますと、私が失神致しましたのは、そうした病気のせいではなかったので御座います。
 私はあの時に、色眼鏡をお外しになった貴方様のお顔を拝見致しますと一緒に、もすこしで、
「あっ。お母様……」
 と叫びそうになったので御座います。そんなにまで貴方様のお顔が私の亡くなったお母様に似ておいで遊ばしたからで御座います。
 もっとも、あなた様のお姿が、私のお母様にソックリでおいで遊ばすことは、予ねてから、色々な雑誌に出ております写真で、よく存じてはおりました。けれども、あのようにソッと私を御覧になりました愛情にみちみちたお眼づかいまでが、ソックリそのまま、私のお母様に生き写しでおいでになりましょうとは夢にも想像致しておりませんでしたので、失礼な言葉か存じませぬけれども、あの時貴方様は、私のお母様の生れかわりとしか思われなかったので御座います。
 私はもう、そう思いますと一緒に、私の運命が眼の前で行き詰まりかけておりますことがアリアリとわかりました。そうして、つい気が遠くなってしまいましたので、病気のせいではありませぬ事を、心
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