私の気もちが又いくらかずつかわって来たように思います。
今も申しましたようにその頃までは毎晩|家中《うちじゅう》寝静まられましてから、たった一人でお湯殿の鏡台の前に坐るのが、私の秘密の楽しみのようになっておりました。そうして毎夜毎夜そのような物思いをくり返しては、泣いたり笑ったりしないことは御座いませんでしたが、そのうちにフト鏡の中の私の顔の輪廓が、どことなく亡くなられたお母様にも似て来たのに気が付いてビックリすることが度々あるようになりました。それは前とちっとも変らぬ眼鼻立ちでありながら、心持ち面長になって、頤《あご》や、襟すじに、ほの白い青味がかって参りますと、お白粉《しろい》なぞはちっともつけないままに、そのあたりがお母様と生きうつしの恰好に見えて来るので御座いました。毎日毎日見るたんびに、それがハッキリとわかって参りまして、しまいには、あの犬塚信乃と阿古屋の眼鼻や唇をつけたお母様が、チャンと鏡の中に、御坐りになって私を見ておいでになるとしか思えない位になって参りました。
そのお母様のお姿は、又、奇妙にも、あのお父様からお斬られになるすこし前の、何ともいえない神々《こうごう》しい、清らかなお姿に見えて来てしようがないので御座いました。そうして、そのお姿を一心に見つめておりますと、そのうちに、その鏡の中のお母様の唇が、おのずと動き出しまして、その間際に仰有ったお言葉が凜々《りんりん》とすき透って、私の耳に響いて来るのでした。
「私は、不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬ……けれども、この上のお宮仕えはいたしかねます」
というように……。
そのお声をきくたびに、私はいつもハッとして、うしろを振り返らずにはおられませんでした。そうして、そこいらに誰も居ないことをたしかめますと、今一度自分の口の中で、こうしたお母様の謎のようなお言葉をくり返しながら、あの時にお母様がお流しになった通りの涙を、ホロホロと流さずにはおられないのでございました。
私はそれから、だんだんと鏡を見るのが怖くなって来ました。鏡の中に映っております私の顔が、世にも不思議な気味のわるいものに思えたり、そうかと思いますとこの上もなくなつかしいものに見えたりしますので、その都度《つど》に鏡というものが、世にも取り止めのない、馬鹿らしいような、恐ろしいような、又はたまらなく苛立たしい品物のように思われてならないので御座いました。しまいには学校の行き帰りに、よその店の硝子窓を見てさえも悲しくて気味わるくて、胸がドキドキするようになりました。そうしていつからともなく、
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……もうどんな事があっても鏡というものを見まい。お化粧もしまい。髪も引き詰めてグルグル巻きにしておきましょう。そうして、あのお母様の謎のようなお言葉のホントウの意味がわかるまでは結婚というものをしまい。
私は直ぐにも東京に上って「中村珊玉様」にお眼にかかって「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません……けれどもこの上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリ仰有ったお母様のお言葉の意味を説き明かして頂きましょう……そうして私がお母様の不義の子でないことをハッキリとたしかめるまでは、死んでも男の方の御親切を身に受けまい……
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というような男のような、気もちになってしまいました。
こうした決心を致しますと、私はある夕方ソッと柴忠さんの家《うち》を脱け出しまして博多築港の石垣の上に参りました。そうしてたった一つ持っておりました粗末な懐中鏡を帯の間から取り出しまして自分の顔とお別れを致しますと、青々と満ちております汐水《しおみず》の中に投げ込みました。そうしてその鏡が一丈ばかり深く、丸いゆるやかな波に揺られて、キラキラと光りながら底の方に見えなくなるまで見送っておりました。
それが私の十六の年の春で御座いました。
柴忠さんは、このような私の勝手なお願いを快よく聞き入れて下さいました。
「それは結構なことと思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で、帝大の教授をやっている岡沢というのが、私の幼友達《おさなともだち》ですから、それに紹介状を書いて上げましょう。気心のいい夫婦者ですが子供がないのですから喜んでお引きうけするでしょう。中洲のおやしきを売ったお金は私がお預りしておりますから、御入用の時はいつでも云ってよこして下さい。それから、これは私の寸志ですが、これだけは盗まれぬようにして肌身につけておいでなさい。他国に旅行くと万一の事が多いものですから……それにあなたはもう只今では、井ノ口家の一粒種になっておられるのですからね……」
というような何から何まで御親切なお言葉で、旅費のほかに、生れて初めて見ました百円のお札を一枚と紹介状を書いて下さいま
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