した。
 その紹介状は開き封になっておりまして、柴忠さんから是非一度読んでおくように云われました。それから別に岡沢先生に宛てて柴忠さんから出される郵便の中味も見せて頂きましたが、どちらにも私の事を死んだ友人の一人娘と書いてありまして、両親の事なぞはすこしも洩らしてありませんでしたので、ほっと安心したことで御座いました。

 女のつまりませぬくり言を長々と書きつけまして嘸《さぞ》かしお倦《あ》きになったことで御座いましょう。
 けれども、その時の私は一生けんめいの思いで御座いました。そうしてそのせいか、門司から備後《びんご》の尾ノ道まで乗りました汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦のお迎えを受けまして谷中《やなか》の閑静なお宅に御厄介になりましたが、それから後《のち》というもの、今日は中村珊玉様をお訪ねしようか、明日《あした》は歌舞伎座へ行こうかと思いながらも、これという手蔓は愚か方角さえもわかりませぬ情なさ……と申して岡沢先生に、このようなことをお打ち明けする訳にも参りませず、途方に暮るるばかりで御座いました。それに東京のめまぐるしさと賑やかさと、とりあえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の難かしさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまいました。
 そうして間もなく翌年の春になりますと、或るお夕飯時のことで御座いました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけずこんな事を云い出されました。
「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことがなかったっけね」
 私はその時に思わずハッとしまして、そう仰言った岡沢先生のお顔を見上げながら真赤になってしまいました。私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない御親切からこんなことを仰言るのではないかと思いまして……。
 けれどもその横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。
「マア。ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大切《だいじ》の大切の歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日《あした》は日曜ですから連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し振りですから……」
 すると岡沢先生も、何も御存じないらしくニコニコして二人の顔を御覧になりました。
「ウン。俺もそう思うとったところだ。歌舞伎座は田舎者が見るもの位に思うておったのじゃからツイ、ウッカリして忘れておった。ハハハハハ。しかし何ぼ何でも、そんな引っこき詰めのグルグル巻の頭では不可《いか》んぞ。伊豆の大島に岡沢の親戚《しんるい》[#「親戚」は底本では「親威」]があるように思われては困るからの……」
「……まあ。あんな可哀想なことを……」
 そんな御冗談のうちに先生御夫婦はいろいろと私に歌舞伎芝居のお話をしてお聞かせになりました。音楽と劇の関係とか拍子木《ひょうしぎ》の音楽的価値と舞台表現の関係とかいうような、興味深いお話が、それからそれへと尽きませんでしたが、私はただもう上《うわ》の空で、ともすれば出かかる溜め息を押え押え御飯を口に運んでおりましたので、みんな忘れてしまいました。ただその中で耳に止まりましたのは奥様から聞きましたお話で、明日の芸題の中心になっておりますのが、それこそ不思議な因縁と申すもので御座いましょう、あなた様のお家の芸となっております阿古屋の琴責めにきまっておりますこと。その阿古屋をおつとめになるのが私と同じ年で今年十七におなりになったばかりの中村半次郎|丈《じょう》……外《ほか》ならぬ貴方様で、そんなにお若くて立女形《たておやま》になられた俳優のお話は昔から一つも伝わっていないこと。そのお衣裳の重さが十三貫目もあるのを、そんなお若さで自由にお使いになるのが又、大変な評判になっていること。そうして此度《こんど》の歌舞伎座の興行は昨年の春お亡くなりになった貴方様のお父様、中村珊玉様のお追善《ついぜん》のためであったこと……なぞでございました。
 私はその時に御飯を何杯頂きましたか、それとも一杯しか頂きませんでしたか、すこしもおぼえていないので御座います。ただ夢心地で岡沢先生御夫婦のお給仕をしながら外の事ばかり考えておりましたようです。
 岡沢先生は「ウッカリして私に歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と云われましたが、ホントウは私こそウッカリしておりましたので、何のために柴忠さんの処からお暇《いとま》を頂きましたか、そうして何の目的で東京に参りましたのか。その時までスッカリ忘れていたでは御座いませんか。そうしてウカウカと致しておりますうちに
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