に於ける科学知識の克《よ》く追随補捉し得べきものに非ざるは、単に姙娠に関する前記二三の特例に照すも斯《かく》の如く明瞭なる事然り。況《いわ》んや、かかる微妙なる事象を一片の法律の条文、又は浅薄なる常識の判断に任せて、深遠なる医学的の研究を全然度外視せること吾が国の法廷の如くなる時は、その危険、その不安果して幾何《いくばく》ぞや。更に況んや、幾多の無辜《むこ》を罰して顧みざる非人道に想倒する時は、烈日の下《もと》寒毛樹立《かんもうじゅりつ》せずんばあるべからず。欧米先進諸国に於ける法医学の発達と、その社会的権威の偉大なる、真に羨望に堪えたりと云うべし。
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 それからちょうど夕方の事でした。ずっと遠くの駿河台の方からニコライ堂の鐘の音が聞こえますと間もなく、図書館の人が窓を閉め始めましたので私はやっと気が付きましたが、その時にはもう広い室《へや》の中に私一人だけしか残っていないので御座いました。
 私はその書物を係の人にお返ししますとそのまま、うなだれて外へ出ましたが、寛永寺の御門の前の杉木立に近い人気の絶えた処まで参りまして、とある大きな木の根方に坐りますと、ありたけの涙を絞りながら泣いて泣いて泣きつづけました。
 その時の私の心持を、どう致しましたならばお兄さまにお伝えする事が出来ましょう……。
 もしこのような事があり得るものと致しましたならば、お兄様と私の身の上こそこの上もないよいお手本では御座いますまいか。
 あなたのお父様と、私のお母様とは唯一眼で恋に落ちられました。そうしてお互いにその恋しい人の姿を、胸の底に深く秘められたまま、寝ても醒めてもお忘れになりませんでした……その思いがお兄様と私の姿にあらわれて、お二人の思いを遂げるためにこの世に生き残っているのでは御座いますまいか。
 こう思い当りました時、私はこの小さな胸が押し潰されてしまって、眼の前が真っ暗になりました中に、二つの青白い鬼火がもつれ合って行くのがホンノリと見えたように思いました。
 けれども又気を取り直して、今一度よくよくあと先を考えまわして見たので御座いましたが、考えれば考えるほど思い当りますことばかりが、あとからあとから出て来るので御座いました。
 あなたのお父様に似ております私の姿を、朝に晩に見ておられました私のお母様はきっと、こうした不思議について何かしら、心の奥深くに思い当っておいでになったに違いないのでした。あの櫛田神社の絵馬堂に奉納されました額ぶちの外題《げだい》に「三国志」をと仰有った柴忠さんの御註文を避けて、わざと「芳流閣上の二犬士」の場面をお作りになった、お母様のお心の底には、ついこの間、私が伏姫《ふせひめ》様のお話を見ました時に思い当りましたのと同じような驚きと喜びが、云うに云われぬ母親の悲しみと一緒に、人知れず潜み隠れていなかったとどうして考えられましょう。その頃の福岡の士族の家庭にはオキマリのように一部ずつ備え附けてありました八犬伝のお話を、お母様だけが御存じなかったと、どうして思われましょう。……そうしてそのような恐ろしい、悩ましい不思議さを明け暮れ胸に秘めておいでになったればこそ、お母様はあのように思い切って、お父様の御成敗をお受けになったのではないでしょうか。私が正《まさ》しく、うちのお父様の血を引いた娘であることを御存じになりながらも、そうした不思議を思い当っておいでになったればこそ、あのように何一つ、お申し開きをなさらなかったのではないでしょうか……。
 ああ。思うも気高い……おそろしい、お母様の純真なお心の力……芸術の道と、人間の道と、そうして、のがれようもなく落ちておいでになった恋の道の三つに、霊と肉を捧げつくして、あえなくも世をお早めになった神聖なお母様……可哀そうなお母様……いじらしいお母様……むごい……悲しい……おなつかしい……。
 こう思いますと私は気がちがいそうにたまらなくなりまして、フイと顔を上げました。するともう日がトップリと暮れておりまして、沢山の落ち葉が、真白な塵と一緒に恐ろしい勢いでゴーゴーと渦巻きながら、私の方へ走って来るようでしたから、私はやっと立ち上りまして谷中の方へ帰りかけました。泣いて泣いて泣きつくしましたあとの空《から》っぽのような気もちになりながら……。
 けれども、そうして星空の下を吹く烈しい秋風の中をフラフラと歩いて行きますうちに、私は又も世の中が次第と明るくなって来るように思い始めました。そうしてその夜は涙に濡れたまま、夢一つ見ませずに安々と眠りましたが、あくる朝は、いつもよりもずっと早く起きまして、先生のお宅の裏や表のお掃除を致しました。
「私はもう一生涯結婚しますまい。お兄様はまだ何も御存じないのですから……この秘密
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