廷に於てアリナの貞操に関し黒白《こくびゃく》を争うこととなりしが、従男爵は、その黒髪青年の肖像画と同じ人物の存在を固く主張せしに対し、アリナ夫人の実父の味方となりし医師、兼、弁護士ランドルフ・タリスマン氏は頑強なる抗弁を試みて一歩も退かず。結局同氏は態々《わざわざ》仏国に渡りて件の肖像画を描きし画工を伴い来り、その画像が元来英国に於て描かれしものに非《あら》ず、西班牙《スペイン》の一闘牛士の死亡したるに依り、その愛人の好みに任せて狩猟服を着たる姿を該《がい》画工が執筆せしものなるが、評判の傑作なりしためその製作の途中に於て盗難に罹《かか》り、転々して英国に渡りたるものなるを以て、細部に於て未完成なる部分が多々ある旨《むね》を一々その画工に指摘せしめつ。次いでタリスマン氏は、画面上に印せられたる新旧幾多の接吻頬ずりのあと、涙の痕跡、及《および》画面に身を支えたる指の痕《あと》と、アリナ夫人の身長指紋その他が完全に一致するところより、アリナ夫人がかねてよりこの画像に叶わぬ恋心を捧げおりし事を立証し、同夫人が嘗《かつ》て尼寺に入《い》らむとせし心理の真相を明白にして、その貞操の肉体的に純潔不二なる事を各方面より詳細に亘りて論断し、更に進んで前掲、希臘《ギリシャ》国、某王妃の例を挙げて、かかる事例が存在の可能なる事を説破したる後《のち》、一段と語気を強めて云いけるよう、
「近く、吾が英国に於ても遺伝学上、かかる現象の存在し得ることを証明し得べき実例あり。最近ラッドレー附近の一種馬場に於て飼育せられし一|牝馬《ひんば》は、今より三年以前に見世物用の斑馬《はんば》と交尾して一匹の混血児《あいのこ》を生み、飼主をして奇利を博せしめし事あり。然るにそれより二年後の昨年度に於て該《がい》牝馬を普通の乗馬と交尾せしめたるに、奇怪にも、以前の配偶たりし斑馬と同様の斑紋を臀部より大腿部にかけて止《とど》めし仔馬を生みたるを以て、現在|斯界《しかい》の専門家、及び、遺伝学者間の論議の中心となりおり、しかも這般《しゃはん》の奇現象を説明し得べき学説の中《うち》、最も権威あるものとして、他の諸説を圧倒しつつあるは目下のところ唯一つ、
 ――生物の親子の外貌性格の相似は、その親の心理に潜在せる深刻なる記憶力が、その精虫と卵子とに影響したるものに外《ほか》ならず――直接の父母以外の、他人に酷似せる子が、姦通の事実なくして生るる事あるはこの道理に依るもの也――
 というに在り。故に、吾国の過去に於ける幾多の裁判が、その当時の最も有力なる学理学説によりて決定せられし先例に依る時は、この訴訟も亦《また》、この説を真理と認めて断定せらるべきものなる事を、余は断乎として主張し得るもの也。すなわちこの事件は、前述の如き心理状態に在りて、結婚を忌避しつつありしアリナ嬢を、従男爵が追求して謝絶の辞に窮せしめ、強いて同棲を承諾せしめしより起りしものにして、この婦人のこの画像に対する精神的の貞操を破らしめし罪は寧《むし》ろ従男爵側に在りと云うべし。アリナ嬢は、何事も云う能《あた》わずして嫁《か》し、何事も云う能わずして死せり。その貞操の高潔なる、その性情の純美なる、これをして疑うべくんば、天下いずれのところにか正義を求めん。これをしも同情せずんば、地上いずれのところにか人道を認めん」
 と涙を揮《ふる》って痛論せしかば、満場|寂《せき》として云うところを知らず。唯、証人席に在りしアリナの実父母が歔欷《きょき》するあるのみ。遂にこの訴訟は従男爵コンラド氏の敗訴となり、アリナの霊と、従男爵の血によりて生まれたる孩児《がいじ》の扶助料、及び、その実父に対する慰藉料として巨額の財産を分与して結着を見たりとなり。
 これを以《もっ》てこれを見れば、古来貞操に関する疑《うたがい》を受けて弁疏《べんそ》する能《あた》わず、冤枉《えんおう》に死せし婦人の中にはかかる類例なしというべからず。且《か》つ、この判例と学説とを真理と認めて類推する時は、男子にても曾て恋着し、もしくは記憶せる女性に似たる児《こ》を、現在の配偶に生ましむる事が、あり得べき道理となり来《きた》るを以て、場合によりては男女間に於ける精神的の貞操の有無をも、形而下の諸現象、譬《たと》えばその児に現われたる特徴等によりて、具体的に証明され得るに到るべく従って、法律上に於ける貞操の字義が現在よりも遥かに狭少厳密となり、道徳上より見たる貞操の意義と一糸相容れざるに到ると同時に、一方には這般の学理を逆利悪用する姦通の隠蔽事実が、陸続《りくぞく》として現出する時代の近き将来に於て来り得べきことも、予想するに難《かた》からざる事となるべし。
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◇訳者曰く=以上を要するに、生物界に於ける霊意識の作用の玄怪不可思議にして現代
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