。王妃も亦床上に横たわりつつ、所在なき折々はその黒奴の肖像を熟視しおられしが、やがて月満ちて生れし孩児《がいじ》を見れば、眉目清秀なる王の胤《たね》と思いきや、真っ黒々の黒ん坊なりしかば王妃の驚き一方《ひとかた》ならず、そのまま悶絶して息絶えなむばかりなりしは左《さ》もありなむ。
 然るに斯《か》くと知りたる王の驚愕と憤激も亦一方ならず。直ちに兵士に命じて王妃を監禁すると同時に、当時召し使い給いし黒奴を悉《ことごと》く搦《から》め取って獄舎に投じ、一々拷問にかけ給いけれども、固《もと》より身に覚えなき者共の事とて白状する者一人もなく、遂《つい》に由々《ゆゆ》しき疑獄の姿とぞなりにける。
 然るに又、その当時、雅典《アテネ》市に、ヒポクラテスとなん呼べる老医師あり。その徳望と、学識と、手腕と、共に一世に冠絶せる人物なりしが、この事を伝え聞くや態々《わざわざ》王の御前《ごぜん》に出頭し、姙娠中の婦女子が或る人の姿を思い込み、又、或る一定の形状色彩のものを気長く思念し、又、凝視する時は、その人の姿、又は、その物品の形状色彩に似たる児の生まるべき事、必ずしも不合理に非《あら》ざるべきを、例を挙げ証を引いて説明せしかば、王の疑《うたがい》ようやくにして解け、王妃と黒奴との冤罪《えんざい》も残りなく晴れて、唯、彼《か》の黒奴の肖像画のみが廃棄焼却の刑に処せられきとなん。これ即ち法医学の濫觴《らんしょう》にして、律法の庭に医師の進言の採用せられし嚆矢《こうし》なりと聞けり。
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◇訳者曰く=支那に伝われる胎教なるものも、このヒポクラテスの見地より見る時は強《あなが》ちに荒唐無稽の迷信として一概に排斥すべきものに非ず。或《あるい》は、最も高等なる科学的の研究手段によりてのみ理解され得べき、深遠微妙なる学理原則のその間《かん》に厳存せるものなしと云うべからず。心すべき事にこそ。
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 又、次に掲ぐるは、今より約二十年前(西暦一八六六年)我英国の法曹界に於て深甚なる注意の焦点となり、海外の専門雑誌にも伝えられし事件なれば、或は記憶に新なる読者もあるべけれども、未知の人々のために抄録せむに、蘇格蘭《スコットランド》の片田舎(地名秘)に住める貴族にして赤髪富豪のきこえ高きコンラド(仮名)従男爵というがあり。年四十に及びて数|哩《マイル》を隔てたる処に在る「鷹が宿」という由緒ある家柄に生れしアリナ(仮名)と呼べる若き女性を夫人として迎えけるが、この女性は元来絶世の美人なりしにも拘わらず、何故《なにゆえ》か八方より申込み来る婚約を悉く謝絶しおり。尼となりて修道院に入らむと、志しおりしものなりしを、八方より手を尽して、辛うじて貰い受けしものなりければ、従男爵の満悦|譬《たと》うべくもあらず。身方《みかた》の親戚知友はもとより新夫人の両親骨肉|及《および》「鷹の宿」の隣家に住める医師、兼、弁護士の免状所有者にして、篤学《とくがく》の聞え高きランドルフ・タリスマン氏迄も招待して、盛大なる華燭の典を挙げ、附近住民をして羨望渇仰の眼を瞠《みは》らしめぬ。
 さる程にアリナ新夫人はやがて、従男爵の胤《たね》を宿しつ。月満ちて玉の如き男子を生み落しけるが、その児《こ》の顔貌一眼見るより従男爵の面色は忽然《こつぜん》として一変し、声を荒らげて云いけるよう。
「吾家には代々|斯《かく》の如き漆黒の毛髪を有せるもの一人も生れたる事なし。又汝が家の系統にもさる者なきは人の知るところにして、汝を吾が妻として迎えたる理由も亦、その点に懸って存するを知らざりしか。察するところ汝は、何人《なんぴと》か黒髪を有する男子と密通してこの子を宿せしものに相違なし。余は斯《かく》の如き児を吾が家の後嗣として披露する能《あた》わず、疾《と》く疾くこの児を抱きて親里に立ち去れ。而《しか》して余の責罰の如何に寛大なるかを思い知れ」
 とぞ罵《ののし》りける。然るにこれに対してアリナ夫人は不思議にも一言の弁解をも試みんとせず。その夜《よ》深く件《くだん》の黒髪の孩児《がいじ》を抱きて秘かに産室をよろぼい出《い》で、跣足《はだし》のまま数|哩《マイル》を歩行して、翌日の正午親里に帰り着きしが、家人の隙《すき》を窺いて玄関横の応接間に入り、その正面に掲げある黒髪の美青年の肖像画の前に来り、石甃《いしだたみ》の上にたおれ伏したるまま息|絶《た》えぬ。程経《ほどへ》てこれを発見せし実父母は驚駭《きょうがい》措《お》くところを識《し》らず。直ちに隣家のタリスマン氏を迎え来り、水よ薬よと立ち騒ぎけれどもその甲斐《かい》なく、唯、黒髪の孩児のみが乳を呼びつつ生き残りけるこそ哀れの中のあわれなりしか。
 その後、この事件は訴訟問題となり、アリナ夫人の実父とコンラド従男爵とは法
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