をこちらから進んでお打ち明けする訳には行かないのですから……。ほかの方と幸福な家庭をお作りになるのかも知れないのですから……。私はそのお邪魔をしないように……私というものがこの世に居りますことを、お兄さまに絶対にお知らせしないようにして、芸術のために身を捧げましょう。お母様に敗《ま》けないように清浄な一生を送りましょう」
 といく度か思い思いしては青い青い澄み渡った朝の空を仰いだことで御座いました。
 それから後《のち》の私は、外《ほか》から来るいろいろな誘惑や迫害とたたかいながら、心の中で、かような決心を固く固く守り続けて行くばかりで御座いました。
 音楽学校を卒業致しました時に、岡沢先生から洋行のおすすめを受けました時も、お気に障《さわ》らないようにしてお断り致しました。……本当を申しますと、飛び立つような思いがしないでは御座いませんでしたが、万一そのために私の写真が新聞に載りまして、お兄様のお眼に止まるようなことがありはしまいかと思いますと、何となく空恐ろしい気持ちがして躊躇されたので御座いました。もしか致しますと、これもお兄様と私とにまつわっておりました、不思議な運命のしわざかも知れませんでしたけれど……。又時たまには、先生を通じて申込んで参りました縁談にも同じようにしてお断り致しました。私のこの胸の疵痕《きずあと》を、お兄様以外のお方にどうしてお眼にかけることが出来ましょう……と思いまして……。
 私はそうして、ただ明けても暮れてもピアノばかり弾いているので御座いました。ちょうど日清戦争のあとで、西洋音楽が一時パッタリと流行《はや》らなくなりまして、軍楽隊と、唱歌だけしか残っていないような有様で御座いましたが、ちっとも構いませずに大学のケーベル先生のお宅や宮内省の山内先生のお宅へ日参致しておりました。新しい楽譜を写しては弾き、写しては弾く楽しみに、夢中になろうなろうとしておりました。
 けれども、そのピアノのキーの白いなめらかな手ざわりに触れるたんびに私は、ともするとお母様のなつかしい白い肌を思い出しまして、熱い涙を落すので御座いました。又はその黒いキーの光りを見る時、お母様がつけておいでになったオハグロの美しさをいつもいつも思い出しました。そうして又、岡沢先生のお庭に咲いているダリヤや、サルビアの赤い花の色を見ますと、あのお母様の後《うしろ》の白い壁についておりました血の滴《したた》りを思い出しまして、ともすると私の心は物狂おしくなるので御座いました。
 そんな物思いをくり返しくり返し致しておりますうちに、あなたのお父様のお心がお兄様のお姿となって、あらわれておりますのと同じように、私のお母様の思いが私のミメカタチとなってこの世に残っておりますことは、もう疑うことが出来なくなりました。そうして、あなたのお父様と私のお母様が、死ぬまでお隠しになった恋が、お兄様と私とによって顔容《かおかたち》を入れ違えたままに遂げられなければならぬ運命が一刻一刻とさし迫って来ておりますことを、私は毎日毎日ハッキリと感ずるようになって参りました。

 ああ。私は、どう致したらよろしいので御座いましょう。
 世間では私をあなたのお父様のお血すじを引いたものと信じ切っているので御座います。もしお兄様と私とが御一緒になるような事になりましたならば、世間の人は何と云うで御座いましょう。キットあの忌《いま》わしい兄妹《きょうだい》の恋として、そのままには許さないで御座いましょう。
 お兄様と私とがホントの兄妹でないという証拠に、あの古い書物のお話を例に引きましても信じて下さる方が何人居られるでしょう。
 又は櫛田神社の絵馬堂にかかっております二つの押絵の人形が何の証拠になりましょう。却《かえ》ってお兄様と私とを世にも咀《のろ》われた男女にしてしまう役にしか立たないで御座いましょう。
 そればかりでなく、その時の私にはこんな事も考えられたので御座いました。
 お兄様はホントウはもうズット前から、お父様にこのお話をお聞きになっているのではないかしら……この事については私よりもずっと詳しく御存じなので、それを表向きには隠しておいでになりながら、お心の中《うち》ではやっぱり私と同じような思いに悩んでおいでになるのではないかしら。女嫌いという評判を平気で立て通しておいでになりますのも、そんなお心もちから出たことで、ホントウは人知れず、私の事を思っておいでになるのではないかしら……私の事をいろいろとお探りになっているのではないかしら……。
 そうして万に一つお兄様が私をお見つけになりました時に、殿方の気強いお心から、そんなことはちっとも構わぬと仰有って、直ぐにも只今の御名誉地位をお振り棄てになって私を救いにお出でになるようなことがありはしまいかしら……。
 
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