にはどこかの病院の寝台の上に寝かされて、白い着物を着た人達に取り巻かれておりました。
 お母様の肩を斬られたあとで、お母様と私とを一緒に突き刺されたお父様の刀は、私の肺を避けておりましたので助かったのだそうで御座います。けれどもお母様は心臓を貫かれておいでになりましたので、その場で絶息しておいでになったそうですが、それでも片手で、シッカリと私を抱き締めておいでになったということで御座います。
 又、お父様は、そのあとで、袴《はかま》をお召しになって、納戸《なんど》のお仏壇の前で見事に切腹しておいでになったそうですが詳しい事は存じません。
 あとあとの事は、何もかも柴忠さんが始末をして下すったそうですが、その時の事を誰が尋ねましても、柴忠さんは苦い顔をして返事をなさらぬとの事で御座いますから、私も気をつけまして、柴忠さんにだけは両親の事を尋ねないように致しておりました。

 私はお乳の下の傷が治りましてから後《のち》、丸三年の間、博多大浜の芝忠さんのお宅にお厄介になっておりました。それから福岡の小学校へ通わして頂いたので御座いますが、その間の芝忠さん御夫婦の御親切というものは、それはそれは筆にも言葉にも尽されませんでした。わけても私のお母様が阿古屋の押絵人形を作ってお上げになったお嬢様には、もう御養子がお見えになっておりましたが、お二人とも私を親身の妹のように可愛がって下さいました。
 けれども私は十六の年の春に高等小学校を卒業致しますと間もなく、思い切って芝忠さんにお暇《いとま》を願って東京の音楽学校に入る決心を致しました。それは、ちょうどその頃に、大浜から程近い市小路《いちこうじ》という町に在ります教会で、オルガンというものを弾き習いまして、西洋音楽というものが面白くて面白くてたまらなかったからで御座いましょうが、今一つには、もうこの上にどんなに辛棒しようと思いましても、生れ故郷の福岡には居られないような気持ちになったからでも御座いました。
 そのわけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……あれは新聞に出た不義者の子よ……東京一の女形《おやま》俳優と、福岡一の別嬪《べっぴん》夫人の間に出来た謎の子よと、指さし眼ざしされておりますことが、成長いたしますにつれてわかって来たからで御座いました。
 学校の修身の時間なぞに、先生が何の気もなく貞女のお話なぞをしておられま
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