何をッ……又してもぬけぬけと……」
「イイえ……こればっかりは正《まさ》しく……」
「エエッ……まだ云うかッ……」
「イエ……こればかりは……」
「黙れッ……ならぬッ」
とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになりましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に琴柱《ことじ》が二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように思います。
私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。
けれどもこれから先の事を書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶《おぼ》えております通りに記し止めさして頂きます。
私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い合って、突立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして見えましたが、その時にお父様は、右手に刀を提《さ》げておいでになった筈でしたけれども、その刀はお父様の身体《からだ》の蔭になって、私の目には這入りませんでした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴《したた》りが、五ツ六ツ、バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。
そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。……と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。
私はその時に夢中になって、お母様に飛びついて行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますがハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱いものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もちだったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それ切り何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時
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