れましたので、私はやっと眼を開《あ》くことが出来ました。
お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏《つっぷ》しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。
私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳《わけ》か只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。
その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。
「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」
と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。
その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白《こんがすり》の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々《こうごう》しかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。
お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。
「申訳御座いません……お疑いは御尤《ごもっと》もで御座います」
と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長い睫《まつげ》から白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。
「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」
「何ッ……何ッ……」
「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」
「……………」
「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」
「何ッ……何じゃと……」
と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。
お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。
「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正《まさ》しくあなた様の……」
「
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