が五つか六つの頃まで生きておりましたが、大変に元気者の慾張り婆さんで、お父様はあまりお好きにならなかったそうですが、十人近くも子供を生んだ経験がありましたので、この時ばかりはお父様は何も仰言らずにお母様の介抱をお許しになったそうです。今でもよくおぼえております。眼の玉のギョロギョロする、肥った色の黒い女で、お母様のお話が出るたんびに、
「私が育てたんじゃもの……ナア御隠居さん」
 と云っては大きな口を開いて男のように笑うのでしたが、その頃の婆さんには珍らしくオハグロをつけていなかった事をよくおぼえています。人の噂によりますと柳町(遊廓)に奉公をしていたこともあるそうですが、その婆さんがやって来まして、お母様のお腹を一ト目見ますと、
「これは大きい。よっぽど大きな男のお子さんに違いない。日数《ひかず》もいくらか延びてお生れになるでしょう」
 と申しましたので、お父様は大変にお喜びになったそうです。けれどもこの婆さんの予言は当りませんで、生れた私は普通の大きさの女の子でした。只日数が一週間ばかり延びただけでしたそうですが、それでもお祖母様や、お父様は不平にお思いになるどころか、オセキ婆さんに手を合わせて、
「ああ。お蔭で安堵した」
 と仰有《おっしゃ》って涙をお流しになった位だそうです。
 私が生れましたのは明治十三年の十二月の二十九日で、大変に雪の降る朝だったそうですが、ちょうどお祖母様もお父様も、もう生れるか生れるかというような御心配のために疲れ切っておいでになりましたので「いよいよ生れる時まで待っておいでなさい」とオセキ婆さんが申しますままに、お座敷のお炬燵《こたつ》に当りながらウトウトしておいでになる間に生れたのだそうで、夜が明けてから子供の泣き声をお聞《きき》になるとお二人ともビックリなすったそうです。けれどもオセキ婆さんは気の強い女で、急いで私を見にお出でになったお父様を、
「アッチへお出でなさい。今抱かして上げます。殿方は産所へお這入りになるものではありません」
 と叱りつけましたので、お父様は又慌ててお炬燵へお這入りになって、頭から蒲団をお冠《かぶ》りになりました。そのために炬燵の櫓《やぐら》が半分丸出しになって、その左右に、お父様の黒いおみ足がニュッと二本つき出ておりましたそうで、
「その御ようすの可笑《おか》しかったこと……」
 とオセキ婆さんがよく
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