様をお出しになったそうですが、その時はお母様もどんなにお仕事がお忙がしくとも「ハイ」と云ってお出かけになりましたそうです。お父様も朝晩神様や仏様に手をお合わせになるほかに、お祖母様がおすすめになる御符や神水なぞも、すなおにおいただきになりましたそうで、決して迷信なぞとは仰言らなかったそうです。
 そんなにして家中《うちじゅう》が子供を欲しがっておいでになりましたところへ、私というものが出来ましたのですから、そのお喜びはどんなだったでしょう。
 今まで黙っておいでになりましたお父様は、いよいよその年の八月に六月目の岩田帯《いわたおび》をお母様がなさるようになりますと、胎教というのをお初めになりましたそうです。それについては、どのような故事がありましたものか、よく存じませぬけれども、やはり漢学の方で支那から伝わった事で御座いましょう。今までお父様とお座敷にお寝《やす》みになったお母様を、お台所の広い板の間の横に在るお茶の間に、たった一人でお寝ませになって、お父様だけがお座敷にお残りになり、又、お祖母様はお玄関の横の御自分の室《へや》に、今までの通りにお寝みになるのでした。そうして、そのお母様がお寝みになるお茶の間の四方には、歴史で名高い人や、勇ましい出来事の絵なぞを一ぱいに貼りつけたり、額にして架《か》けたりしてありますので、そんな絵や字なぞを、お母様が朝晩に見ておいでになりますと、お腹に居る子供が、そうしたお母様の気持ちから感化を受けまして立派な子供になりますのだそうで、それが胎教というのだそうで御座います。そんな絵や字は、私が大きくなりまして後《のち》も、煤《すす》けたままお茶の間の四方に並んでおりましたので、楠正成の討死とか、白虎隊の少年の切腹とか、上野の彰義隊の戦争とか、日本武尊《やまとたけるのみこと》が熊襲《くまそ》を退治していられるところとかいうような、勇ましい中にも、むごたらしいような石版絵が、西郷様の肖像とか高山彦九郎の書いた忠の字とかいうものと一緒に並んでいるのでしたが、そんな絵や字を見まわしておりますと、お父様は私を、まだ生れないうちから男の児《こ》ときめておいでになったらしいことが、よくわかるので御座いました。
 それから、いよいよ私が生れる時が近づきますと、前に申しましたオセキ婆さんが泊り込みでお台所の板の間に床を取って寝ました。この婆さんは、私
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