。こんなに高価《たか》く付いた押絵があるものじゃない。何にしてもこれは井ノ口の奥さんが一世一代の精魂を打ち込まれた物だから、いっその事、娘の名前で氏神様に上げてしまった方がよかろう」
 という事になりました。それでその押絵を立派なビイドロ張りの額縁《がくぶち》に納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。その額ぶちの中にはやはり本檜の指物細工《さしものざいく》で舞台が浮き出させてありまして、建具までも本物の通り手数をかけた雛形が使ってありましたので、その重かった事、四人とか五人とかで小半日かかって、やっと釣り上げる事が出来たそうで御座います。
 そのようなことで、お母様の評判が前にも倍して高くなりまして、それにつれて頼んで来るお仕事が又、前の倍ももっと上も来るようになりました事も申すまでもありませぬ。けれども、お母様はそれから間もなく、その年の暮近くに私をお生みになる事がおわかりになりましたために、八月から後《のち》に来た注文はピタピタと断っておしまいになったそうです。

 私が生れます前後のお祖母様や御両親たちのお騒ぎになりようというものは、はたから見ていると、とても可笑《おか》しくてたまらぬ位だったそうで御座います。
「美人は子を生まず」とか「気嵩《きかさ》の女には子種がすくない」とかよく云うようで御座いますが、私のお母様は両方を兼ねておいでになりましたので、お祖母様もこの事ばかりを御心配なすってよくそんな愚痴を仰言ったそうです。もっともお父様はそんな事に就いては黙っておいでになりましたそうですが「三年子なければ去る」という慣《なら》わしが福岡にもありましたのに、かんじんのお母様がお家付きで、お父様の方が御養子でおいでになるので、お祖母様は、どうなさる事も出来なかったのでしょう。
 それでもお祖母様は、どんなにか初孫《ういまご》の顔を御覧になりたくておいでになったでしょう。
 お祖母様は、ですから時々御自分から進んでお母様をお連れになっては、お地蔵様だの、観音様だの、御神木なぞを拝みにお出でになったり、御符《ごふ》や御神水《ごしんすい》なぞを取り寄せて、お母様にお戴かせになったり、色々とお苦心をなすったそうです。「お前、きょうは観音様の日だよ」とか「明日《あした》はお地蔵様の何々だよ」とか仰言っては、月に二三度ずつお母
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