が消えますと、私は一生懸命の思いで、やっと気を取り直しました。そうして息も絶え絶えの思いを致しながら、血のあとを包み消しまして人力車に乗って、この北里先生の療養院に参りましたが、もう私の生命《いのち》はないものと存じまして、無理をしてはならぬという係りのお医者様のお言葉をお受けはしながら、この紙と鉛筆をソット寝床の下へ忍ばせまして、看護婦さんの隙《すき》を見てはお手紙を書いているので御座います。
この手紙をおしまいまで、お読みになりますれば貴方様は、すぐにあるタッタ一つの事を、お思い出しになるに違いないと思います。それはあなた様にとりまして何でもないほどに、よくおわかりになっていることかと思いますが、それをお思い出しになりさえすれば、すべての秘密を何の苦もなく解いておしまいになることと信じております。
いずれに致しましても、あなた様と私との間にまつわっております不思議な運命の謎を解いて頂けますお方は、この広い世の中に、あなた様お一人しかおいでにならないので御座います。私は唯、そのたった一つの事を、あなた様にお尋ね致したくてたまらぬ思いに責められながら、そうした勇気を出し得ませぬままに、今日まで生き永らえておったようなもので御座います。
とは思いながら、何から先に申し上げてよいやらわかりませぬ。この悩ましさをどう致しましょう。あせってもあせっても進みませぬこの筆のもどかしさをどう致しましょう。
ああ。私は、あなた様の、あの熱い涙のお言葉と、お口づけを一生の思い出としてあの世に旅立ってはわるいので御座いましょうか。
私はこの頃毎晩のようにあの押絵の夢ばかり見るので御座います。あの芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上に跨《またが》って、銀色の刀を振り上げております犬塚信乃の凜々《りり》しい姿や、厳《いか》めしい畠山重忠の前で琴を弾いております阿古屋《あこや》の、色のさめたしおらしい姿を、繰返し繰返し夢に見るので御座います。それにつれて私のお父様の顔や、お母様の顔や、または生れてから十二年の間に住まっておりました故郷の家の有様なぞが、幻燈《まぼろし》のように美しく、千切《ちぎ》れ千切れに見えて参ります。そうして眼が醒めますと、ちょうどその頃の子供心に立ち帰りましたような、甘いような、なつかしいような涙が、いつまでもいつまでも流れまして致しようがないので御座います。
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