を運び出して、自宅へ持って行くところだな……と考え付いた。
私はそう考え付きながらタッタ一人、腕を組んで微笑した……が……しかし……ナゼこの時に微笑したのか自分でもよく解らなかった。多分、一昨日の夜中から昨日《きのう》の昼間へかけて、さしもに異常なセンセーションを病院中に捲き起した歌原未亡人……まだ顔も姿も知らないまんまに、私の悪夢の対象になりそうに思われて、怖くて怖くて仕様がなかったその当の本人が、案外手もなく、コロリと死んでしまったらしいので、チョット張り合い抜けがしたのが可笑《おか》しかったのであろう。それと同時に、介抱が巧く行かなかった当の責任者の副院長が、嘸《さぞ》かし狼狽しているだろうと想像した、嘲《あざけ》りの意味の微笑も交《まじ》っていたように思う。とにかくこの時の私が、妙に冷静な、悪魔的な気分になりつつ、寝台から辷り降りたことは事実であった。それから悠々と片足をさし伸ばして、寝台の下のスリッパを探すべく、暗い床の上を爪先で掻きまわしたのであったが、不思議な事に、この時はいくら探してもスリッパが足に触れなかった。私は昨日《きのう》が昨日《きのう》まで、片っ方しか要らないスリッパを、両方とも、寝台の枕元の左側にキチンと揃えておく事にしていたのだから、ドッチかに探り当らない筈は無いのであったが……。
そんな事を考えまわしているうちに私は、何かしら、ドキンドキンとするような、気味のわるい予感に襲われたように思う。そうして尚も不思議に思い思い、慌てて片足をさし伸ばして、遠くの方まで爪先で引っ掻きまわしているうちに又、フト気が付いた。これは寝がけに松葉杖を突いて来たのだから、ウッカリして平生《いつも》と違った処にスリッパを脱いだものに違い無い。それじゃイクラ探しても解らない筈だと、又も微苦笑しいしい電燈のスイッチをひねったが……その途端に私はツイ鼻の先に、思いもかけぬ人間の姿を発見したので、思わずアッと声を上げた。寝台のまん中に坐り直して、うしろ手を突いたまま固くなってしまった。
それは入口の扉《ドア》の前に突っ立っている、副院長の姿であった。いつの間に這入って来たものかわからないが、大方私がまだ眠っているうちに、コッソリと忍び込んだものであろう。霜降りのモーニングを着て、派手な縞のズボンを穿《は》いているが、鼻眼鏡はかけていなかった。髪の毛をクシャクシャにしたまま、青白い、冴え返るほどスゴイ表情をして、両手を高々と胸の上に組んで、私をジイと睨み付けているのであったが、その近眼らしい眩しそうな眼付きを見ると、発狂しているのではないらしい。鋭敏な理智と、深刻な憎悪の光りに満ち満ちているようである。
臆病者の私が咄嗟《とっさ》の間《ま》に、これだけの観察をする余裕を持っていたのは、吾ながら意外であった。それは多分、眼が醒めた時から私を支配していた、悪魔的な冷静さのお蔭であったろうと思うが、そのまま瞬《またた》きもせずに相手の瞳を見詰めていると、柳井副院長も、私に負けない冷静さで私の視線を睨み返しつつ、タッタ一言、白い唇を動かした。
「歌原未亡人は、貴方《あなた》が殺したのでしょう」
「……………」
私は思わず息を詰めた。高圧電気に打たれたように全身を硬直さして、副院長の顔を一瞬間、穴の明《あ》くほど凝視した……が……その次の瞬間には、もう、全身の骨が消え失せたかと思うくらい力が抜けて来た。そのままフラフラと寝床の上にヒレ伏してしまったのであった。
私の眼の前が真暗になった。同時に気が遠くなりかけて、シイイインと耳鳴りがし初めた……と思う間もなく、私の頭の奥の奥の方から、世にもおそろしい、物すごい出来事の記憶がアリアリと浮かみ現われ初めた……と見るうちに、次から次へと非常な高速度でグングン展開して行った。……と同時に私の腋《わき》の下からポタポタと、氷のような汗が滴《したた》り初めた。
それはツイ今しがた、私が起き上る前の睡眠中に起った出来事であった。
私はマザマザとした夢中遊行を起しながら、この室をさまよい出て、思いもかけぬ恐ろしい大罪を平気で犯して来たのであった。しかも、その大罪に関する私の記憶は、普通の夢中遊行者のソレと同様に、夢遊発作のあとの疲れで、グッスリと眠り込んでいるうちに、あとかたもなく私の潜在意識の底に消え込んでしまっていたので、ツイ今しがた眼を醒ました時には、チットモ思い出し得ずにいたのであったが……そのタマラナイ浅ましい記憶がタッタ今、副院長の暗示的な言葉で刺戟されると同時に、いともアザヤカに……電光のように眼まぐるしく閃《ひら》めき現われて来たのであった。
それは確かに私の夢中遊行に違い無いと思われた。
……フト気が付いてみると私は、タオル寝巻に、黒い革のバンドを捲き付けて、一本足の素跣足《すはだし》のまま、とある暗い廊下の途中に在る青ペンキ塗りの扉《ドア》の前に、ピッタリと身体《からだ》を押し付けていた。そうして廊下の左右の外《はず》れにさしている電燈の光りを、不思議そうにキョロキョロと見まわしているところであった。
その時に私はチョット驚いた。……ここは一体どこなのだろう。俺は松葉杖を持たないまま、どうしてコンナ処まで来ているのだろう。そもそも俺は何の用事があってコンナペンキ塗りの扉《ドア》の前にヘバリ付いているのだろう……と一生懸命に考え廻していたが、そのうちに、廊下の外れから反射して来る薄黄色い光線をタヨリに、頭の上の鴨居《かもい》に取り付けてある瀬戸物の白い標札を読んでみると、小さなゴチック文字で「標本室」と書いてあることがわかった。
それを見た瞬間に私は、私の立っている場所がどこなのかハッキリとわかった。……と同時に私自身を、この真夜中にコンナ処まで誘い出して来た、或るおそろしい、深刻な慾望の目標が何であるかという事を、身ぶるいするほどアリアリと思い出したのであった。
私はソレを思い出すと同時に、暗がりの中で襟元をつくろった。前後を見まわしてニヤリと笑いながら、タオル寝巻の片袖で、手の先を念入りに包んで、眼の前の青ペンキ塗りの扉《ドア》に手をかけたが、昼間の通りに何の苦もなく開《あ》いたので、そのまま影法師のように内側へ辷り込んで、コトリとも云わせずに扉《ドア》を閉め切る事が出来た。
向うの窓の磨硝子《すりガラス》から沁《し》み込む、月の光りに照らし出されたタタキの上は、大地と同様にシットリとして冷めたかった。私はその上を片足で飛び飛び、向うの棚の端まで行ったが、その端の方に並んでいる小さな瓶の群の中でも、一番小さい一つを取り上げて、中を透かしてみると、何も這入っていないようである。キルクの栓を開けて嗅《か》いでみても薬品らしい香気が全く無い。
私はその瓶を片手に持ったまま、室の隅に飛んで行って、そこに取り付けてある手洗場の水でゆすぎ上げて、指紋を残さないように龍口栓《コック》の周囲まで洗い浄めた。それからその瓶を懐中《ふところ》に入れて、又も一本足で小刻みに飛びながら棚の向う側に来たが、ちょうど下から三段目の眼の高さの処に並んだ、中位の瓶の中でも、タッタ一つホコリのたかっていない紫色のヤツを両袖で抱え卸《おろ》して、月あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬《ローマ》字体で「CHLOROFORM」……「[#ここから横組み]十ポンド[#ここで横組み終わり]」と印刷してあった。
その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔《とうすい》気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟《おおげさ》ではないくらいに思った。
私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子《すりガラス》にニジリ寄った。窓の框《かまち》に瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少し宛《ずつ》小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐《うちぶところ》に落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、臍《へそ》の上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。
それから私はソロソロと扉《ドア》の処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソット扉《ドア》を細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。
私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私の趾《あしゆび》の弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。
私の胸は又も躍った。
片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。
……これは拙《まず》かった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。
その大きな真鍮《しんちゅう》の振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。
……グズグズするな……。
……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。
と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。そうして昼間見た特等一号室の前まで来ると、チョットそこいらを見まわしながら、小腰を屈《かが》めて鍵穴のあたりへ眼を付けたが、不思議な事に鍵穴の向うは一面に仄白《ほのじろ》く光っているばかりで、室内の模様がチットモわからない。変だなと思って、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると何の事だ。向う側の把手《ハンドル》に捲き付けてある繃帯の端ッコが、ちょうど鍵穴の真向うにブラ下がっているのであった。
私はこの小さな失敗に思わず苦笑させられた。しかし又、そのお蔭で一層冷静に返りつつ、扉《ドア》の縁と入口の柱の間の僅かな隙間《すきま》に耳を押し当てて、暫《しばら》くの間ジットしていたが、室《へや》の中からは何の物音も聞えて来ない。一人残らず眠っている気はいである。
「一般の入院患者さん達よ。病院泥棒が怖いと思ったら、ドアの把手《ハンドル》を繃帯で巻いてはいけませんよ。すくなくとも夜中《やちゅう》だけは繃帯を解いて鍵をかけておかないと剣呑《けんのん》ですよ。その証拠は……ホーラ……御覧の通り……」
とお説教でもしてみたいくらい軽い気持ちで……しかし指先は飽《あ》く迄も冷静に冴え返らせつつソーッと扉《ドア》を引き開いた。その隙間から室《へや》の中を一渡り見まわして、四人の女が四人ともイギタナイ眠りを貪《むさぼ》っている様子を見届けると、なおも用心深く室《へや》の中にニジリ込んで、うしろ手にシックリと扉《ドア》を閉じた。
私は出来るだけ手早く仕事を運んだ。
室《へや》の中にムウムウ充満している女の呼吸と、毛髪と、皮膚と、白粉《おしろい》と、香水の匂いに噎《む》せかえりながら、片手でクロロフォルムの瓶をシッカリと
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