一足お先に
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曰《いわ》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|燭《しょく》の電燈が、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+欣」、第3水準1−87−48]衝《きんしょう》が
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       一

[#ここから2字下げ]
……聖書に曰《いわ》く「もし汝《なんじ》の右の眼、なんじを罪に陥《おと》さば、抉《えぐ》り出してこれを棄てよ……もし右の手、なんじを罪に陥さばこれを断《き》り棄てよ。蓋《そは》、五体の一つを失うは、全身を地獄に投げ入れらるるよりは勝れり」と……。
……けれどもトックの昔に断《き》り棄てられた、私の右足の幽霊が私に取り憑《つ》いて、私に強盗、強姦《ごうかん》、殺人の世にも恐ろしい罪を犯させている事がわかったとしたら、私は一体どうしたらいいのだろう。
……私は悪魔になってもいいのかしら……。
[#ここで字下げ終わり]

 右の膝小僧の曲り目の処が、不意にキリキリと疼《いた》み出したので、私はビックリして跳ね起きた。何かしら鋭い刃物で突き刺されたような痛みであった……
 ……と思い思い、半分夢心地のまま、そのあたりと思う処を両手で探りまわしてみると……
 ……私は又ドキンとした。眼がハッキリと醒《さ》めてしまった。
 ……私の右足が無い……
 私の右足は股《もも》の付根の処からスッポリと消失せている。毛布の上から叩《たた》いても……毛布をめくっても見当らない。小さな禿頭《はげあたま》のようにブルブル震えている股の切口と、ブクブクした敷蒲団ばかりである。
 しかし片っ方の左足はチャンと胴体にくっ付いている。縒《よ》れ縒《よ》れのタオル寝巻の下に折れ曲って、垢《あか》だらけの足首を覗《のぞ》かせている。それだのに右足はいくら探しても無い。タッタ今飛び上るほど疼《いた》んだキリ、影も形も無くなっている。
 これはどうした事であろう……怪訝《おか》しい。不思議だ。
 私はねぼけ眼《まなこ》をこすりこすり、そこいらを見まわした。
 森閑《しんかん》とした真夜中である。
 黒いメリンスの風呂敷に包《くる》まった十|燭《しょく》の電燈が、眼の前にブラ下がっている。
 窓の外には黒い空が垂直に屹立《きった》っている。
 その電燈の向うの壁際にはモウ一つ鉄の寝台があって、その上に逞《たくま》しい大男が向うむきに寝ている。脱《ぬ》けはだかったドテラの襟元から、半出来の龍の刺青《ほりもの》をあらわして、まん中の薄くなったイガ栗頭と、鬚《ひげ》だらけの達磨《だるま》みたいな横顔を見せている。
 その枕元の茶器棚には、可愛い桃の小枝を挿《さ》した薬瓶が乗っかっている。妙な、トンチンカンな光景……。
 ……そうだ。私は入院しているのだ。ここは東京の築地の奎洋堂《けいようどう》という大きな外科病院の二等室なのだ。向うむきに寝ている大男は私の同室患者で、青木という大連《たいれん》の八百屋さんである。その枕元の桃の小枝は、昨日《きのう》私の妹の美代子が、見舞いに来た時に挿して行ったものだ……。
 ……こんな事をボンヤリと考えているうちに、又も右脚の膝小僧の処が、ズキンズキンと飛び上る程|疼《いた》んだ。私は思わず毛布の上から、そこを圧《おさ》え付けようとしたが、又、ハッと気が付いた。
 ……無い方の足が痛んだのだ……今のは……。
 私は開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなくなった。そのまま眼球《めだま》ばかり動かして、キョロキョロとそこいらを見まわしていたようであったが、そのうちにハッと眼を据《す》えると、私の全身がゾーッと粟立《あわだ》って来た。両方の眼を拳固《げんこ》で力一パイこすりまわした。寝台の足の先の処をジイッと凝視《みつめ》たまま、石像のように固くなった。
 ……私の右足がニューとそこに突っ立っている。
 それは私の右足に相違ない……瘠《や》せこけた、青白い股の切り口が、薄桃色にクルクルと引っ括《くく》っている。……そのまん中から灰色の大腿骨《だいたいこつ》が一寸《いっすん》ばかり抜け出している。……その膝っ小僧の曲り目の処へ、小さなミットの形をした肉腫が、血の気《け》を無くしたまま、シッカリと獅噛《しが》み付いている。
 ……それはタッタ今、寝台から辷《すべ》り降りたまんまジッとしていたものらしい。リノリウム張りの床の上に足の平《ひら》を当てて、尺蠖《しゃくとりむし》のように一本立ちをしていた。そうして全体の中心を取るかのように、薄くらがりの中でフウラリフウラリと、前後左右に傾いていたが、そのうちに心もち「く」の字|型《なり》に曲ったと思うと、普通の人間の片足がする通りに、ヒョコリヒョコリと左手の窓の方へ歩き出した。
 私の心臓が二度ばかりドキンドキンとした。そうしてそのまま又、ピッタリと静まった。……と思うと同時に頭の毛が一本一本にザワザワザワザワと動きまわりはじめた。
 そのうちに私の右足は、そうした私の気持を感じないらしく、悠々と四足か、五足ほど歩いて行ったと思うと、窓の下の白壁に、膝小僧の肉腫をブッ付けた。そこで又、暫《しばら》くの間フウラリフウラリと躊躇《ちゅうちょ》していたが、今度は斜《ななめ》に横たおしになって、切っ立った壁をすこしずつ、爪探《つまさぐ》りをしながら登って行った。そうしてチョウド窓枠の処まで来ると、框《かまち》に爪先をかけながら、又もとの垂直に返って、そのまま前後左右にユラリユラリと中心を取っていたが、やがて薄汚れた窓|硝子《がらす》の中を、影絵のようにスッと通り抜けると、真暗い廊下の空間へ一歩踏み出した。
「……ア…アブナイッ……」
 と私は思わず叫んだが間に合わなかった。私の右足が横たおしになって、窓の向う側の廊下に落ちた。森閑《しんかん》とした病院じゅうに「ドターン」という反響を作りながら………………。
「モシモシ……モシモシイ」
 と濁った声で呼びながら、私の胸の上に手をかけて、揺すぶり起す者がある。ハッと気が付いて眼を見開くと、痛いほど眩《まぶ》しい白昼《まひる》の光線が流れ込んだので、私は又シッカリと眼を閉じてしまった。
「モシモシ。新東《しんとう》さん新東さん。どうかなすったんですか。もうじき廻診ですよ」
 という男の胴間声《どうまごえ》が、急に耳元に近づいて来た。
 私は今一度、思い切って眼を見開いた。シビレの切れかかったボンノクボを枕に凭《もた》せかけたまま、ウソウソと四周《あたり》を見まわした。
 たしかに真昼間《まっぴるま》である。奎洋堂病院の二等室である。タッタ今、夢の中………どうしても夢としか思えない……で見た深夜の光景はアトカタも無い。今しがた私の右脚が出て行った廊下の、モウ一つ向うの窓の外には、和《な》ごやかな太陽の光りが満ち満ちて、エニシダの黄色い花と、深緑の糸の乱れが、窓|硝子《がらす》一パイになって透きとおっている。その向うの、ダリヤの花壇越しに見える特等病室の窓に、昨日《きのう》までは見かけなかった白麻の、素晴らしいドローンウォークのカーテンが垂れかかっているのは、誰か身分のある人でも入院したのであろうか……。
 ふり返ってみると右手の壁に、煤《すす》けた入院規則の印刷物が貼り付けてある。「医員の命令に服従すべし」とか「許可なくして外泊すべからず」とか「入院料は十日目|毎《ごと》に支払うべし」とかいう、トテモ旧式な文句であったが、それを見ているうちに私はスッカリ吾《われ》に還《かえ》る事が出来た。
 私はこの春休みの末の日に、この外科病院に入院して、今から一週間ばかり前に、股の処から右足を切断してもらったのであった。それは、その右の膝小僧の上に大きな肉腫が出来たからで、私が母校のW大学のトラックで、ハイハードルの練習中にこしらえた小さな疵《きず》が、現在の医学では説明不可能な……しかも癌《がん》以上に恐ろしい生命《いのち》取りだと云われている、肉腫の病原を誘い入れたものらしいという院長の説明であった。
「ハッハッハッハッ………どうしたんですか。大層|唸《うな》っておいでになりましたが。痛むんですか」
 今しがた私を揺り起した青木という患者は、こう云って快闊《かいかつ》に笑いながら半身を起した。私も同時に寝台の上に起き直ったが、その時に私はビッショリと盗汗《ねあせ》を掻《か》いているのに気が付いた。
「……イヤ……夢を見たんです……ハハハ……」
 と私はカスレた声で笑いながら、右足の処の毛布を見た。……がもとよりそこに右足が在《あ》ろう筈は無い。ただ毛布の皺《しわ》が山脈のように重なり合っているばかりである。私は苦笑も出来ない気持ちになった。
「ハハア。夢ですか。エヘヘヘヘ。それじゃもしや足の夢を御覧になったんじゃありませんか」
「エッ……」
 私は又ギックリとさせられながら、そう云う青木のニヤニヤした鬚面《ひげづら》をふり返った。どうして私の夢を透視したのだろうと疑いながら、その脂肪光りする赤黒い顔を凝視した。

 この青木という男は、コンナ奇蹟じみた事を云い出す性質《たち》の人間では絶対になかった。長いこと大連に住んでいるお蔭で、言葉付きこそ少々|生温《なまぬる》くなっているけれども、生れは生《き》っ粋《すい》の江戸ッ子で、親ゆずりの青物屋だったそうであるが、女道楽で身代《しんだい》を左前にしたあげく、四五年前に左足の関節炎にかかって、この病院に這入《はい》ると、一と思いに股《もも》の中途から切断してもらったので、トウトウ身代限りの義足一本になってしまった。ところが、その時まで一緒に居た細君というのが又、世にも下らない女で、青木の義足がシミジミ嫌《いや》になったらしく、ほかの男と逃げてしまったので、青木の方でも占《し》めたとばかり、早速なじみの芸者をそそのかして、合わせて三本足で道行きを極《き》め込んだが、それから又、色々と苦労をしたあげくに、やっと大連で落ち付いて八百屋を開く事になった。すると又そのうちに、大勢の女を欺《だま》した天罰かして、今度は右の足首に関節炎が来はじめたのであったが、青木はそれを大連に沢山ある病院のどこにも見せずに、わざわざお金を算段して、昔なじみのこの病院に入院しに来た。……だから今度右の足を切られたら又、今の女房が逃げ出して、新しい女が入れ代りに来るに違いない。それが楽しみで楽しみで……と誰にも彼にも自慢そうにボカボカ話している。それくらい単純なアケスケな頭の持ち主である。だからタッタ今見たばかりの私の夢を云い当てるような、深刻な芸当が出来よう筈が無い。それとも、もしかしたら今、私が夢を見ているうちに、囈言《うわごと》か何か云ったのじゃないかしらん……なぞと一瞬間に考えまわしながら、独りで赤面していると、その眼の前で、青木はツルリと顔を撫でまわして、黄色い歯を一パイに剥《む》き出して見せた。
「ハッハッハッ。驚いたもんでしょう。千里眼でしょう。多分そんな事だろうと思いましたよ。さっきから左足を伸ばしたり縮めたりして歩く真似をしていなすったんですからね。ハッハッハッ。おまけにアブナイなんて大きな声を出して……」
「……………」
 私は無言のまま、首の処まで赤くなったのを感じた。
「ハッハッ。実は私《あっし》もそんな経験があるんですよ。この病院で足を切ってもらった最初のうちは、よく足の夢を見たもんです」
「……足の夢……」
 と私は口の中でつぶやいた。いよいよ煙《けむ》に捲かれてしまいながら……。すると青木も、いよいよ得意そうにうなずいた。
「そうなんです。足を切られた連中は、よく足の夢を見るものなんです。それこそ足の幽霊かと思うくらいハッキリしていて、トッテモ気味がわるいんですがね」
「足の幽霊……」
「そうなんです。しかし幽霊には足が無いって事に、昔から相場が極《きま》っているんですから、足ばかりの幽霊と来ると、まこ
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