歩いていた。その上に、久し振りに歩く気持よさと、持って生れた競争本能で、横を通り抜けて行く女の人を追い越して行くうちに、もう病院の大玄関まで来てしまった。
 その玄関は入院しがけに、担架《たんか》の上からチラリと天井を見ただけで、本当に見まわすのは今が初めてであった。花崗石《みかげいし》と、木煉瓦と、蛇紋石と、ステインドグラスと、白ペンキ塗りの材木とで組上げた、華麗荘重なゴチック式で、その左側の壁に「御見舞受付……歌原家」という貼札がしてある。その横に、木綿の紋付きを着た頑固そうな書生が二人、大きな名刺受けを置いたデスクを前にして腰をかけているが、その受付のうしろへ曲り込んだ廊下は、急に薄暗くなって、ピカピカ光る真鍮《しんちゅう》の把手《ノッブ》が四つ宛《ずつ》、両側に並んでいる。その一番奥の左手のノッブに白い繃帯が捲いてあるのが、問題の歌原未亡人の病室になっているのであった。
 私はそこで暫《しばら》く立ち止まっていた。ドンナ人間が歌原未亡人を見舞いに来るかと思ったので……けれどもそのうちに、受付係の書生が二人とも、ジロジロと私の顔を振り返り初めたので、私はさり気なく引返して、右手の廊下に曲り込んで行った。
 その廊下には、大きな診察室兼手術室が、会計室と、外来患者室と、薬局とに向い合って並んでいたが、その薬局の前の廊下をモウ一つ右に曲り込むと、手術室と壁|一重《ひとえ》になった標本室の前に出るのであった。
 私はその標本室の青い扉《ドア》の前で立ち止まった。素早く前後左右を見まわして、誰も居ない事をたしかめた。胸をドキドキさせながら、出来るだけ静かに真鍮の把手《ハンドル》を廻してみると、誰の不注意かわからないが、鍵が掛かっていなかったので、私は音もなく扉《ドア》の内側に辷り込む事が出来た。
 標本室の内部は、廊下よりも二尺ばかり低いタタキになっていて、夥《おびただ》しい解剖学の書物や、古い会計の帳簿類、又は昇汞《しょうこう》、石炭酸、クロロホルムなぞいう色々な毒薬が、新薬らしい、読み方も解らない名前を書いた瓶と一所に、天井まで届く数層の棚を、行儀よく並んで埋めている。そうしてソンナ棚の間を、二つほど奥の方へ通り抜けると、今度は標本ばかり並べた数列の棚の間に出るのであったが、換気法がいいせいか、そんな標本特有の妙な臭気がチットモしない。大小数百の瓶に納まっている外科参考の異類|異形《いぎょう》な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。
 私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。
 私の右足がそこに立っているのであった。
 それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈《たけ》の高い瓶の中に、股《もも》の途中から切り離された片足の殆《ほと》んど全体が、こころもち「く」の字型に屈《かが》んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早《もう》、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮《さえぎ》られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛《しが》み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布《かみきれ》に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢《とし》に相違無い事が直覚されたのであった。
 私はソレを見ると、心の底からホッとした。
 何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪《か》き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝《けさ》みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出《しで》かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹《きょうだい》は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在《あ》るかどうか知らない。しかし、些《すくな》くとも私は、小さい時からよく寝呆《ねぼ》ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖《びょうへき》があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝《けさ》みたような「足の夢」に刺戟《しげき》されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々《いないな》……今朝《けさ》から、あんな変テコな夢に魘《うな》されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。
 私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間《ま》も忘れないようにしなければならぬ義務がある。
 それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。
「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢《おとし》と病歴だけ書かして頂くのですが、如何《いかが》でしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」
 と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒《がらすとう》の中にピッタリと封じ籠《こ》められて、強烈な薬液の中に涵《ひた》されて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅に蔵《しま》い込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]は無いであろう。それに上越《うえこ》す精神的な「足禁《あしど》め」の方法は無いであろう。
 こう決心すると私は矢も楯《たて》もたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的を遂《と》げたのであった。果して足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]に有効かドウカは別として……。

 私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎるくらい意識していた。だから副院長に話したら訳なく見せてもらえるであろう自分の足の標本を、わざわざ人目を忍んで見に来た位であったが、しかし、そうした私の行動がイクラ滑稽《こっけい》に見えたにしても、私自身にとっては決して、笑い事ではないのであった。この不景気のさ[#「さ」に傍点]中《なか》に、妹と二人切りで、利子の薄い、限られた貯金を使って、ドウデモコウデモ学校を卒業しなければならないという、兄らしい意識で、いつも一パイに緊張して来た私は、もう自分ながら同情に堪《た》えないくらい神経過敏になり切っていた。妹に話したら噴《ふ》き出すかも知れないほど、臆病者になり切っていたのであった。それはもうこの時既に、逸早《いちはや》く私の心理に蔽《おお》いかかっていた、片輪者《かたわもの》らしいヒガミ根性のせいであったかも知れないけれども……。
 そう思い思い私は、変り果てた姿で、高い処に上がっている自分の足を見上げて、今一つホーッと溜息をした。
 その溜息はホントウの意味で「一足お先《さ》きに」失敬した自分の足の行方を、眼の前に見届けた安心そのもののあらわれに外《ほか》ならなかった。同時に、これからは断然足の夢を見まい……両脚のある時と同様に、快活に元気よくしよう……片輪者のヒガミ根性なぞを、ミジンも見せないようにして、他人《ひと》様に対しよう……放ったらかしていた勉強もポツポツ始めよう。そうして妹に安心させよう……と心の底で固く固く誓い固めた溜め息でもあった。
 私はアンマリ長い事あおむいて首が痛くなったので、頭をガックリとうつ向けて頸《くび》の骨を休めた。そのついでに、足下の棚の低い瓶の中に眠っている赤ん坊が、額《ひたい》の中央から鼻の下まで切り割られた痕《あと》を、太い麻糸でブツブツに縫い合わせられたまま、奇妙な泣き笑いみたような表情を凝固させているのを見返りながら、ソロソロと入口の扉《ドア》の前に引返《ひっかえ》した。そこで耳を澄まして扉《ドア》を開くと、幸い誰も居ない様子なので、大急ぎで廊下へ出た。そうして元来た道とは反対に、賄場《まかないば》の前の狭い廊下から、近道伝いに自分の室《へや》に帰ると、急にガッカリして寝台の上に這い上った。枕元に松葉杖を立てかけたまま、手足を投げ出して引っくり返ってしまった。

 久しく身体《からだ》を使わなかったせいか、僅かばかりの散歩のうちに非常に疲れてしまったらしい。私は思わずグッスリと眠ってしまった。しかし余り長く眠ったようにも思わないうちに眼を醒ますと、いつの間にか日が暮れていて、窓の外には青い月影が映っている。その光りで室《へや》の中も薄明《うすあか》くなっているが、青木はまだ帰っていないらしく、夜具を畳んだままの寝台の上に、私の松葉杖が二本とも並べて投げ出してある。大方、私が眠っているうちに看護婦が来て、室《へや》の掃除をしたものであろう。
 いったい何時頃かしらんと思って、枕元の腕時計を月あかりに透かしてみると驚いた……四時をすこしまわっている。恐ろしくよく寝たものだ。ことによると時計が違っているのかも知れないが、それにしても病院中が森閑《しんかん》となっているのだから、真夜中には違い無いであろう。とにかく用を足して本当に寝る事にしようと思い思い、もう一度窓の外を振り返ると、その時にタッタ今まで真暗《まっくら》であった窓の向うの特等病室の電燈が、真白に輝き出しているのに気が付いた。こっちの窓一パイに乱れかかっているエニシダの枝|越《ごし》に、白いドローンウォークの花模様が、青紫色の光明を反射さしているのがトテモ眩《まぶ》しくて美しかった。
 私はその美しさに心を惹かるるともなく、ボンヤリと見惚《みと》れていたが、そのうちに又、奇妙な事に気が付いた。
 気のせいか知れないけれども、病院中がヒッソリと寝鎮《ねしず》まっている中に、玄関の方向から特等室の前の廊下へかけては、何かしらバタバタと足音がしているようである。そう思って見ると、その特等室の眩《まぶ》しい電燈の光りまでもブルブルと震えているようで、人影は見えないけれども室《へや》の中まで何かしら混雑しているらしい気はいが感じられるようである。……もしかしたら歌原未亡人の容態が変ったのかも知れない……と思ううちに、どこか遠くからケタタマしく自動車の警笛《サイレン》が聞えて、素晴らしい速度《スピード》でグングンこっちへ近付いて来た。そうして間もなく病院の前の曲り角で、二三度ブーブーと鳴らしながらピッタリと止まった。……と思って見ているうちに、今度は特等室の電燈がパッと消えた。ドローンウォークの花模様のネガチブをハッキリと、私の網膜に残したまま……。
 その瞬間に……サテは歌原未亡人が死んだのだな……と私は直覚した。そうして……タッタ今死体
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