握り締めつつ、見事な絨毯《じゅうたん》の花模様の上を、膝っ小僧と両手の三本足で匍《は》いまわった。第一に、歌原男爵未亡人の寝床の側《そば》に枕を並べている、人相のよくないお婆さんの枕元に在る鼻紙に、透明な液体をポタポタと落して、あぐらを掻《か》いている鼻の穴にソーッと近づけた。しかし最初は手が震えていたらしく、薬液に濡れた紙を、お婆さんの顔の上で取り落しそうになったので、ヒヤリとして手を引っこめたが、そのうちにお婆さんの寝息の調子がハッキリと変って来たのでホッと安心した。同時にコレ位の僅かな分量で、一人の人間がヘタバルものならば、俺はチットばかり薬を持って来過ぎたな……と気が付いた。
 その次には厚い藁蒲団《わらぶとん》と絹蒲団を高々と重ねた上に、仰向けに寝ている歌原未亡人の枕元に匍《は》い寄って、そのツンと聳《そび》えている鼻の穴の前に、ソーッと瓶の口を近づけたが、何だか効果が無《なさ》そうに思えたので、枕元に置いてあった脱脂綿を引きち切って、タップリと浸《ひた》しながら嗅《か》がしていると、ポーッと上気《じょうき》していたその顔が、いつとなく白くなったと思ううちに、何だか大理石のような冷たい感じにかわって来たようなので、又も慌てて手を引っこめた。
 それから未亡人の向う側の枕元に、婦人雑誌を拡げて、その上に頬を押し付けている看護婦の前に手を伸ばしながら、チョッピリした鼻の穴に、夫人のお流れを頂戴させると、見ているうちにグニャグニャとなって横たおしにブツ倒れながら、ドタリと大きな音を立てたのには胆《きも》を冷やした。思わずハッとして手に汗を握った。すると又それと同時に、入口の近くに寝ていた一番若い看護婦が、ムニャムニャと寝返りをしかけたので、私は又、大急ぎでその方へ匍い寄って行って、残りの薬液の大部分を綿に浸《ひた》して差し付けた。そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退《の》いた。……モウ大丈夫という安心と、スバラシイ何ともいえない或るものを征服し得た誇りとを、胸一パイに躍らせながら……。
 私は、その嬉しさに駆られて、寝ている女たちの顔を見まわすべく、一本足で立ち上りかけたが、思いがけなくフラフラとなって、絨毯の上に後手《うしろで》を突いた。その瞬間にこれは多分、最前から室《へや》の中の息苦しい女の匂いに混っている、麻酔《ますい》薬の透明な芳香に、いくらか脳髄を犯されたせいかも知れないと思った。……が……しかし、ここで眼を眩《ま》わしたり何かしたら大変な事になると思ったので、モウ一度両手を突いて、気を取り直しつつソロソロと立ち上った。並んで麻酔している女たちの枕元の、生冷《なまつめ》たい壁紙のまん中に身体《からだ》を寄せかけて、落ち付こう落ち付こうと努力しいしい、改めて室《へや》の中を見まわした。

 室《へや》のまん中には雪洞《ぼんぼり》型の電燈が一個ブラ下って、ホノ黄色い光りを放散していた。それはクーライト式になっていて、明るくすると五十|燭《しょく》以上になりそうな、瓦斯《ガス》入りの大きな球《たま》であったが、その光りに照し出された室内の調度の何一つとして、贅沢でないものはなかった。室《へや》の一方に輝き並んでいる螺鈿《らでん》の茶棚、同じチャブ台、その上に居並ぶ銀の食器、上等の茶器、金色《こんじき》燦然《さんぜん》たる大トランク、その上に置かれた枝垂《しだ》れのベコニヤ、印度《いんど》の宮殿を思わせる金糸《きんし》の壁かけ、支那の仙洞《せんとう》を忍ばせる白鳥の羽箒《はぼうき》なぞ……そんなものは一つ残らず、未亡人が入院した昨夜から、昨日《きのう》の昼間にかけて運び込まれたものに相違ないが、トテモ病院の中とは思えない豪奢《ごうしゃ》ぶりで、スースーと麻酔している女たちの夜具までも、赤や青の底眩《そこまば》ゆい緞子《どんす》ずくめであった。
 そんなものを見まわしているうちに、私は、タオル寝巻一枚の自分の姿が恥かしくなって来た。吾《わ》れ知らず襟元を掻き合せながら、男爵未亡人の寝姿に眼を移した。
 白いシーツに包んだ敷蒲団を、藁蒲団の上に高々と積み重ねて、その上に正しい姿勢で寝ていた男爵未亡人は、麻酔が利いたせいか、離被架《リヒカ》の中から斜《はす》かいに脱け出して、グルグル捲きの頭をこちら向きにズリ落して、胸の繃帯を肩の処まで露《あら》わしたまま、白い、肉付きのいい両腕を左右に投げ出した、ダラシない姿にかわっている。ムッチリした大きな身体《からだ》に、薄光りする青地の長襦袢《ながじゅばん》を巻き付けているのが、ちょうど全身に黥《いれずみ》をしているようで、気味のわるいほど蠱惑《こわく》的に見えた。
 その姿を見返りつつ私は電球の下に進み寄って、絹房《きぬぶさ》の付いた黒い紐《ひも》を引いた。同時に室《へや》の中が眩しいほど蒼白くなったが、私はチットも心配しなかった。病室の中が夜中に明るくなるのは決して珍らしい事ではないので、窓の外から人が見ていても、決して怪しまれる気遣いは無いと思ったからである。
 私はそのまま片足で老女の寝床を飛び越して、男爵未亡人の藁布団に凭《も》たれかかりながら、横坐りに坐り込んだ。胸の上に置かれた羽根布団と離被架《リヒカ》とを、静かに片わきへ引き除《の》けて、寝顔をジイッと覗き込んだ。
 麻酔のために頬と唇が白味がかっているとはいえ、電燈の光りにマトモに照し出されたその眼鼻立ち、青い絹に包まれているその肉体の豊麗さは何にたとえようもない。正《まさ》にあたたかい柔かい、スヤスヤと呼吸する白大理石の名彫刻である。ラテン型の輪廓美と、ジュー型の脂肪美と併せ備えた肉体美である。限り無い精力と、巨万の富と、行き届いた化粧法とに飽満《ほうまん》した、百パーセントの魅惑そのものの寝姿である……ことに、その腮《あご》から頸《くび》すじへかけた肉線の水々《みずみず》しいこと……。
 私はややもするとクラクラとなりかける心を叱り付けながら、未亡人の枕元に光っている銀色の鋏《はさみ》を取り上げた。それは新しいガーゼを巻き付けた眼鏡型の柄《え》の処から、薄っペラになった尖端《せんたん》まで一直線に、剣《つるぎ》のように細くなっている、非常に鋭利なものであったが、その鋏を二三度開いたり、閉じたりして切れ味を考えると間もなく、未亡人の胸に捲き付けた夥《おびただ》しい繃帯を、容赦なくブスブスと切り開いて、先ず右の方の大きな、まん丸い乳房を、青白い光線の下に曝《さら》し出した。
 その雪のような乳房の表面には、今まで締め付けていた繃帯の痕跡《あと》が淡紅色の海草のようにダンダラになってヘバリ付いていたが、しかし、私は溜息をせずにはいられなかった。
 この女性が、エロの殿堂のように唄われているのは、その比類の無い美貌のせいではなかった。又はその飽く事を知らぬ恋愛技巧のせいでもなかった。この女性が今までに、あらゆる異性の魂を吸い寄せ迷い込ませて来たエロの殿堂の神秘力は、その左右の乳房の間の、白い、なめらかな皮肌《ひふ》の上に在る……底知れぬ×××××と、浮き上るほどの××××××を、さり気なくほのめき輝かしているミゾオチのまん中に在る……ということを眼《ま》のあたり発見した私は、それこそ生れて初めての思いに囚《とら》われて、思わず身ぶるいをさせられたのであった。
 それから私は、瞬《またた》きも出来ないほどの高度な好奇心に囚《とら》われつつ、未亡人の左の肩から掛けられた繃帯を一気に切り離して、手術された左の乳房を光線に晒《さら》した。
 見ると、まだ※[#「火+欣」、第3水準1−87−48]衝《きんしょう》が残っているらしく、こころもち潮紅《ちょうこう》したまま萎《しな》び潰《つぶ》れていて、乳首と肋《あばら》とを間近く引き寄せた縫い目の処には、黒い血の塊《かたまり》がコビリ着いたまま、青白い光りの下にシミジミと戦《おのの》きふるえていた。
 私は余りの傷《いた》ましさに思わず眼を閉じさせられた。
 ……片っ方の乳房を喪った偉大なヴィナス……
 ……黄金の毒気に蝕《むし》ばまれた大理石像……
 ……悪魔に噛《か》じられたエロの女神……
 ……天罰を蒙《こうむ》ったバムパイヤ……
 なぞという無残な形容詞を次から次に考えさせられた。
 けれども、そんな言葉を頭に閃《ひら》めかしているうちに又、何とも知れない異常な衝動がズキズキと私の全身に疼《うず》き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなって来た。この女の全身の肉体美と、痛々しい黒血を噛み出した乳房とを一所にして、明るい光線の下に晒《さら》してみたら……というようなアラレモナイ息苦しい願望が、そこいら中にノタ打ちまわるのを押し止《とど》めることが出来なくなったのであった。
 私はそれでもジッと気を落ち着けて鋏を取り直した。軽い緞子《どんす》の羽根布団を、寝床の下へ無造作に掴み除《の》けて、未亡人の腹部に捲き付いている黒繻子《くろじゅす》の細帯に手をかけたのであったが、その時に私はフト奇妙な事に気が付いた。
 それは幅の狭い帯の下に挟まっている、ザラザラした固いものの手触《てざわ》りであった。
 私はその固いものが指先に触れると、その正体が未《ま》だよくわからないうちに、一種の不愉快な、蛇の腹に触ったような予感を受けたので、ゾッとして手を引っこめたが、又すぐに神経を取り直して両手をさしのばすと、その緩《ゆる》やかな黒繻子の帯を重なったまま引き上げて、容赦なくブツリブツリと切断して行った。そうしてその下の青い襦袢の襟に絡まり込んでいる、茶革《ちゃがわ》のサック様のものを引きずり出したが、その二重に折り曲げられた蓋《ふた》を無造作に開いて、紫|天鵞絨《びろうど》のクッションに埋《うず》められた宝石行列を一眼見ると、私はハッと息を呑んだ。……生れて初めて見る稲妻色の光りの束……底知れぬ深藍色《しんらんしょく》の反射……静かに燃え立つ血色の焔《ほのお》……それは考える迄もなく、男爵未亡人の秘蔵の中でも一粒|選《え》りのものでなければならなかった。生命《いのち》と掛け換えの一粒一粒に相違なかった。
 私はワナナク手で茶革の蓋を折り曲げて、タオル寝巻の内懐《うちぶところ》に落し込んだ。そうしてジッと未亡人の寝顔を見返りながら、堪《たま》らない残忍な、愉快な気持ちに満たされつつ、心の底から押し上げるように笑い出した。
「……ウフ……ウフ……ウフウフウフウフウフ……」

 それから私がドンナ事を特一号室の中でしたか、全く記憶していない。ただ、いつの間にか私は一糸も纏《まと》わぬ素《す》っ裸体《ぱだか》になって、青白い肋《あばら》骨を骸骨のように波打たせて、骨だらけの左手に麻酔薬の残った小瓶を……右手にはギラギラ光る舶来の鋏を振りまわしながら、瓦斯《ガス》入り電球の下に一本足を爪立てて、野蛮人のようにピョンピョンと飛びまわっていた事を記憶しているだけである。そうしてその間じゅう心の底から、
「ウフウフウフ……アハアハアハ……」
 と笑い続けていた事を、微《かすか》に記憶しているようである……。……が……しかし、それは唯それだけであった。私の記憶はそこいらからパッタリと中絶してしまって、その次に気が付いた時には奇妙にも、やはり丸裸体《まるはだか》のまま、貧弱な十|燭《しょく》の光りを背にして、自分の病棟付きの手洗場の片隅に、壁に向って突っ立っていた。そうして片手で薄黒いザラザラした壁を押さえて、ウットリと窓の外を眺めながら、長々と放尿しているのであったが、その時に、眼の前のコンクリート壁に植えられた硝子《ガラス》の破片に、西に傾いた満月が、病的に黄色くなったまま引っかかっている光景が、タマラナク咽喉《のど》が渇いていたその時の気持ちと一緒に、今でも不思議なくらいハッキリと印象に残っているようである。
 私はその時にはもう、今まで自分がして来た事をキレイに忘れていたように思う。そうしてユックリと放尿
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