思うんですが……他の処にはないようですから……」
 私はもう一度深くうなずいた。
 すると殆んど同時に入口の扉《ドア》が開《あ》いて金丸刑事が帰って来たが、汗を拭き拭き私に一枚の名刺を渡した。それは女持ちの小型なアイボリー紙で上等のインキで小さく田中春と印刷してある。それを受け取るとすぐに鼻に当ててみたが思わずニッコリ笑った。すると飯村は、それを冗談とでも思ったのか一緒になって笑い出した。
「いや銀行でも弱ったんです。私が女の事を貴下《あなた》にお話しているうちに、若い行員どもが、引っ切りなしにゲラゲラ笑うんで困りました」
 私は事件の緒《いとぐち》がいよいよハッキリと付いて来たので急に気が浮き浮きして来た。
「ああ。いい臭いだ。おれが犬なら直ぐに女を探し出すんだがなあ。……こんな時にスコットランドヤードの探偵犬《ボッブ》が居るといいんだがなあ」
 この時に杉川医師も階下《した》から上って来た。
「ボーイがやっと意識を回復したようですが。……どうもヒステリーの被告みたいに、神経性の熱を四十度も出しやがって譫言《うわごと》ばかり……」
「どんな譫言を……」
 と私は急に真面目になって問うた。
「黒い洋服だ。黒い洋服だ。美人美人。素敵だ素敵だなぞと……そうして今眼をあけると直ぐに起き上って、側に居たボーイ頭に、もう正午《ひる》過ぎですかと尋ねたりしておりましたが、馬鹿な奴で……貴下《あなた》に睨まれたのが余程こたえたと見えまして……」
「ははは。意気地のない奴だ」
「何かお尋ねになりますか……」
「いや、もう宜しい。犯人はもう解っている」
「え」
 と皆は一時に私の顔を見た。私はちょっと眼を閉じて頭の中を整理すると、すぐに又見開いて、皆の顔を見まわした。
「犯人はやはりその女です。その女……田中春というのは多分偽名でしょうが……その女は泥酔している紳士に麻酔剤か何か嗅がして、シャツの上膊部を切り破って、薬液を注射して殺した。そうして覚悟の自殺と見せるために、瓶や鋏に被害者自身の指紋をつけたばかりでなく、上衣の外套を着せて、泥靴まで穿かせて、帽子や注射器までもきちんと整理して出て行った」
「その女を犯人と認める理由は……」
 という質問が極めて自然に熱海検事の口から出た。私はその方にちょっと頭を下げながら説明を続けた。
「第一の理由を述べると、女はその前にも一度、この紳士を殺そうとしていることを、今しがた私が引き割いたこの白い麻のハンカチが証明している。すなわち今から二十四時間経たない以前にこの紳士は、その女と一緒に或るカフェーでウイスキー入りの珈琲《コーヒー》を飲んでいるらしいが、その珈琲にはアルカリ性の毒薬が入れてあった。その毒薬というのは私の知っている範囲では多分支那産のもので、『婆鵲三秘《ばしゃくさんぴ》』という書に載っている『魚目《ぎょもく》』という劇毒らしい。実物を手に入れた事がないから分析的な内容は判然しないが、強いアルカリ性のものである事は間違いないようである。すなわちこの毒を検するに彩糸《さいし》を以てす。黒糸《こくし》を黄化す、青糸《せいし》を赤変す。綾羅錦繍《りょうらきんしゅう》触るるもの皆色を変ず。粒化《りゅうか》して魚目に擬し、陶壺中《とうこちゅう》に鉛封《えんぷう》す。酒中《しゅちゅう》神効《しんこう》あり。一|粒《りゅう》の用、命《めい》半日《はんにち》を出でず。死貌、悪食《あくじき》に彷彿すとあるが、ちょうどそれと同じような作用を、このハンカチに浸《にじ》んだ毒薬が起しているので、如何に烈しい毒であるかは、このアルカリ分に触れたものが皆色を吸収されて変色しているばかりでなく、ハンカチ自体でも、直ぐに裂ける位に地が弱っているのを見てもわかる。
 ……女がこのウイスキー入りの珈琲を紳士に勧めると、紳士は直ちに毒と覚《さと》って引っくり返して、自分の鼻をかむハンカチで拭いた。女は、それが後日の証拠になる事を恐れて、自分の紫のハンカチを男に遣って、汚れたのと交換しようとしたが、紳士はその手には乗らずに、濡れたハンカチを絞り固めて外套の衣嚢《かくし》に入れたばかりでなく、女の紫のハンカチと一緒に、金受取りの割符にした名刺の半分までも取り上げて仕舞い込んでしまった。そのために、女は一層殺意を早めて、その夜の中《うち》にここに来て、被害者にアルコール類似の毒液を注射し、遂にその目的を遂げた。
 ところで私の知っている範囲ではアルコール臭を有する猛毒はメチール系統のもので、泥酔者に注射をすると殆んど即死するものがあると聞いているが、被害者に用いられたものもその一種ではないかと考えられる。しかし木精《メチール》系統の毒薬は非常に興味があるにも拘わらず、分析の範囲があまりに広過ぎるために私は研究を後まわしにしていたので、目下のところこの毒物が何であるかは明言出来ない。尚《なお》、また、日本でこの種の毒物が使用された事実をまだ聞かない事と、高等な医学と有機化学の知識と、優秀な看護婦程度の経験が、この毒物の製造と応用に必要な点から推して、この女が容易ならぬ学識手腕を持っているか、又は女の背後に意外に深刻な魔手が隠れて、女を操《あやつ》っているのではないか……という仮定が成立しそうに思えるが、しかしこれは単に仮定であって軽々しくは断定出来ない。何故かと云うと、この女の犯罪行為の中《うち》には如何にも素人じみた失策が幾つも在るので、この女を使用してこんな犯罪を遂行させた人間がもしいるとすれば、それは殆んど女と同等の素人でなければならぬとも考えられるからである。だからこの場合は、全然毒殺の経験を持たない女が、この紳士に対して殺意を持っているうちに、このような毒物を手に入れたので、俄《にわ》かに思い付いた犯罪と見るのが、至当ではないかと考えられる。
 ……ところでその女の失策というのは、今数えて見ると四つばかりある。
 その第一は自分の手に、紫のアニリン染料が附いているのを気付かないで、紳士の濡れたハンカチを取ろうとしたために、隅の方に紫の指痕を附けた。その変色していない部分は布地《きれじ》が乾燥していたために化学変化を起さなかったので、そのためにこの女はタイプライターを扱う女という事実が推測され得る事になった。
 その第二はこの室《へや》に来ておりながら、毒薬を拭いたハンカチを奪い返さずに立ち去った事で、その第三は鍵を掛けないで逃げて行った事である。これは何かに驚いたためではないかと考えられるのであるが、しかしこの第三の鍵を掛けなかった失策は、その以前にボーイに大枚二十円を与えて口止めをしていたので大した失策にならずに済んだ。
 ……最後にこの女は、非常に注意深い性質でありながら、犯罪行為には慣れないと見えて、到る処に大きな犯跡を残している。その中でも指紋に関する知識はまだ一般に普及されていないから、ワニス塗りの扉《ドア》に手を触れたのは咎《とが》めないとしても、油引きの廊下の左端の方を選《よ》って歩いたのは、如何にも馬鹿馬鹿しい不注意である。足跡を残すのはまだいいとしても、万一辷りたおれでもしたら、それこそ大変な事になったであろう。
 ……なお他殺という事は、この紳士の性質と行動を見ればわかる。この紳士が、ずっと以前に人気の荒い南部加州あたりで労働をしていたらしい事と、その趣味が余り高くない事は、その風采と、所持品と、強い酒精《アルコール》中毒であろうと推定される。それからその後に、最近まで引続いて長い間、生命《いのち》がけの仕事をしていたことは、その所持しているピストルが、非常な旧式を使い狎《な》らしたもので、且つ銃口《つつぐち》の旋条が著しく磨滅しているのを見れば、容易にうなずかれる。つまり手狎《てな》れているために出し入れが迅速で、従って近距離の命中が確実なために、がたがたピストルながら手離しかねていたものと見るべきで、殊に、その五連発の中《うち》から最近に一発撃ち出されているのは決して無意味でない。所持品の中に予備弾のケースが見当らない以上、この紳士は多分一週間前に、このピストルを一挺だけ持って、どこからか逃げ出して来たものである。しかもその貴重な五発の中の一発を発射したのは余程の危険に迫られた結果と見る事が出来る。
 ……なおこの紳士が外国から逃げて来たもので、今も尚行方を晦《くら》ましている者らしい事は、預金の取り扱い方と、手荷物の皆新しい事と、着物にも帽子にも名前《イニシャル》が付いていない事と、手紙の類を一通も出さず、ホテルの名前入りの状袋《じょうぶくろ》や紙も無論使用しなかった事と、銀行の支配人に出鱈目《でたらめ》の住所や名前を云った事と、訪問客も手紙も絶無であった事などによって明かに推測される。事によるとこの紳士は一週間前に着のみ着のままで日本に逃げて来て、新しく買ったトランクやスートケースを提げてこのホテルへ逃げ込んで来たものではないか……そうして絶えず一身の危険を脅かされていたものではないかと考え得べき理由がある。
 ……ところがその中にたった一人、この紳士の隠れ家を知っている者が居た。それがこの紫のハンカチを持った女である。この女がこの紳士を知っているとすれば多分外国……米国で知り合いになったものと考えられるが……。
 ……その女は少くとも三四日以前にこの紳士が日本に来ている事を発見して遂にその住所を突き止めた。そうしてこの紳士を脅迫したものであろう……多額の金を受取った。すなわちこの紳士には容易ならぬ旧悪があって、女がそれを知っていたばかりでなく、その旧悪に附け込んで、その所持金を奪って殺して終《しま》う計画を持っていた……とすればこの事件の全体が非常にハッキリして来る。これがその女を犯人と認める第二の理由……」
 ここまで説明して言葉を切ると、耳を澄ましていた一同は各自《てんで》に夢の醒めたような顔を上げた。そうして如何にも感服した体《てい》で私の顔を見た。飯村部長は低い嘆息の声さえ洩らした。
 しかし私はその時に何だか妙に腹が立って来た。これ位の事に感心して刑事事件に足が突込めるものかと思った。そうして……よし……それではここでもう一つ吃驚《びっくり》するものを見せてやろう……と思った矢先に、感心しながらもじっと考えていた熱海検事と志免警部の口から同じ質問が同時に出た。
「その女の特徴は……」
「こっちへお出でなさい」
 と云いながら私は入口の扉《ドア》を押し開けて廊下へ出た。そうしてあとから続いてぞろぞろと出て来た十名の先に立って、階段の降り口の処まで来ると、懐中電燈の光りで床の上の女の靴痕を指し示して、
「これをよく御覧なさい」
 と云った。
 十名の連中は代る代る腰を屈めて床の上を熟視した。そこは階段の向うに在る明り取りの窓から外の光りが明るく指し込んでいたが、それでも自分の懐中電燈の方が強く輝いていた。その光りの輪の中に印されている、あるかないかの二つの靴痕の上に、私の推理力は一人の女を連れて来て十四号室の方に向って立たせた。私はその姿を皆によく飲み込ませるために、多少の想像を加味しながら、十人に聞えるだけの低い音調で、順を逐《お》うて説明し出した。
「……この淡《うす》い靴痕が女のものである事は説明するまでもないであろう。爪先はこの通り稍《やや》外向きに開いていて、ちょっと見たところ西洋人のように思えるが、それは歩いている間だけで、このボーイの靴痕と向い合って立ち止まった処を見るとこの通り、ずっと爪先が近づいていて、生れ付き真直ぐか、内股に歩くように出来てる日本の女の足の特質を、不用意のうちに暴露している。これは随分永く外国で生活した日本人にでもよく見受ける習慣で、支那人や朝鮮人には絶無と云って差支《さしつかえ》ない。背丈は靴の長さと歩幅であらかた推測出来るものであるが、歩幅はこのような精神の緊張した場合には、非常に違うものだから除外するとして、靴の長さだけで推定すると、日本の女の足としては幾分細長い方で、ちょうど銀行に金を受取りに行った田中春の背恰好と一致する。それに
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