ヘリオトロープの香気がしただけであった。……この香水はこのハンカチとは調和しない。紫のハンカチには大抵バイオレット系の香水が振りかけてあるものだが……とその時に私は思った。
「ヘリオトロープの香水はどこにもなかったね」
「ありませんでした。只洗面台の処に濃いリニー香水と仏国製のレモン石鹸があっただけです」
と又も志免警部が即答した。私のする事を一々眼に止めながら……。
私は考えに沈んでこつこつと室内を歩きまわり初めた。
ほかの連中は多少の倦怠を感じて来たらしい。熱海検事は小声で何事か古木書記に口授し初めた。志免警部は両手を背後《うしろ》に廻して、屍体の頭のてっぺんから足の爪先まで見まわし初めた。そのほかの連中も窓の近くでぼそぼそ話をしたり外を眺めてこっそり欠伸《あくび》をしたりしていた。
私はその間に今のハンカチが見せてくれた奇怪な暗示材料を、岩形氏の死状と照し合わせて、万に一つも間違いのない結論に到達しようと努力した。そうしてほんのもう一歩か二歩で結論に手が達《とど》きそうな気持ちになっているところへ、最前から所在なさにぼんやりと煙草《たばこ》ばかり吹かしていた杉川医師が突然思い出したように私の方を振り返った。
「最早《もう》ボーイが気付いているでしょう。一寸《ちょっと》行って見ます」
私はちょっとの間《ま》眼に見えないものを取り逃がしたようにいらいらしたが、すぐに落着いて答えた。
「……どうか……もし意識がたしかになっているようでしたら今|些《すこ》し問いたい事があります」
杉川医師は首肯《うなず》きながらすぐに室《へや》を出て行ったが、その足音が廊下に消え去ると間もなく、隣の室の卓上電話が突然にけたたましく鳴り出した。
私はすぐに飛んで行って受話器を外《はず》した。
「……もしもし……もしもし……貴方《あなた》はステーションホテルですか。十四号室に居られる狭山さんを……」
「僕だ僕だ。君は金丸君だろう」
「あ。貴下《あなた》でしたか……では報告します」
「銀行から掛けているのかね」
「そうです。報告の内容はここに居る人が皆知っている事ばかりです」
「ああいいよ。どうだったね」
「意外な事があるのです。この銀行から岩形氏の金を受け取って行ったのは岩形氏自身ではありません。岩形氏の小切手を持った日本婦人です」
「ふむ。それでやっとわかった。そんな事だろうと思った」
「……はあ……私は意外でした」
「まあいい……その婦人の服装は……」
「……思い切った派手なもので、しかも非常な美人だったと云うのです。顔は丸顔で……もしもし……顔は丸顔で髪は真黒く、鏝《こて》か何かで縮らした束髪に結って、大きな本真珠らしい金足《きん》のピンで止めてあったと云います。眉は濃く長く、眼は黒く大きく、口元は極く小さくて締まっていたそうです。額は明瞭な富士額で鼻と腮《あご》はハッキリわかりませんが……もしもし……ハッキリと判りませんが兎《と》に角《かく》中肉中背の素晴らしい美人で、顔を真白く塗って、頬紅をさしていたそうで……非常に誘惑的で妖艶な眼の覚めるような……ちょっと君等……ちょっと笑わずにいてくれ給え……どうも電話が卓上電話なので……もしもし妖艶とも云うべきものだったそうです。しかし服装はあまり大したものではなく普通の上等程度だったそうで……被布《ひふ》は紫縮緬《むらさきちりめん》に何かちらちらと金糸の刺繍《ししゅう》をしたもので、下は高貴織りか何からしく、派手な柄で、何でも俗悪な色っぽいものだったそうですが、まだ冬にもならぬのに黒狐の襟巻をして、時計入りの皮の手提げと、濃い空色に白縁を取った洋傘《パラソル》と紫色のハンカチを持っていたそうです」
「金はどうして渡したのか」
「それがです……それが怪訝《おか》しいのです。金を預けてから三日も経たぬ十日の朝に岩形氏は電話でもって支配人を呼び出して、近いうちに自分の預金全部を引き出すかも知れないから、そのつもりでいてくれと宣告したそうです。それで支配人はどこかの銀行へお送りになるのならばこちらで手続きをしましょうかと云ったら……いや全部現金で引き出すのだ。しかしまだ一日や二日の余裕があるから、それまでに準備しておいてくれ。但し、利子だけは残しておくと云ったそうです。支配人は少々困ったのでこう云ったそうです。どうも現金が十万円以上となるとどこの銀行でも一寸には揃いかねます。他の銀行か何かへお組み換えになるのか何だったら今日只今でも宜しゅう御座いますが……と云うと岩形氏は多少怒気を帯びた声で……これだから日本の銀行は困る。自分が一昨日《おととい》預けた時は現金で十四万円を行李に詰めて持って来たではないか。その時には黙って受取っておきながら今更そんな事を云っては困る。これは自分が金を扱う方法だから仕方がない。君の銀行はこの間から大株でかなり儲かっている筈だから、それ位の事はどうにかならぬ事はあるまい……と高飛車で図星を刺されましたので仕方なしに承知をしたのでした。実は支配人も驚いたのだそうです。取引所の事情を知り抜いている話ぶりなので……そうして内々で準備をしていると一昨々日《さきおととい》……十一日の朝になって岩形氏がひょっこり遣って来て、いつもの通りの態度で三千円の小切手を出した序《ついで》に、例の金の準備はどうだと尋ねたそうです。これに対して支配人は、準備はちゃんと出来ている。しかし何とかしてもらえまいかと頼みますと岩形氏はじっと考えたあげく極めて無造作な口調で、それではその五分の四だけ引き出す事にしよう。そうして受取り人には田中|春《はる》という極く確かな女を出すからよろしく頼む。なお間違いのないように、割《わ》り符《ふだ》を渡しておこう……と云って自分の名刺を半分に割《さ》いて、一つを支配人に渡し、残りの一つを自分のポケットに入れたそうです」
「ええと。一寸待ってくれ。その名刺の半分はそこに在るのかね」
「はい。私がここに持っております」
「それは名刺の上半部で、岩形の形という字の上が残っていはしないか」
「そうです。どうしておわかりになりますか……」
「その下の半分はこっちに在る。岩形氏の背広のポケットから出て来た」
「……………」
「それからどうした」
「一寸支配人が代ってお話をしたいとの事ですが宜しいですか」
「ああどうか。まだ報告があるかね」
「ありません……それだけです」
「それじゃ君はもっと詳しくその婦人の様子を銀行員から聞き出してくれ給え。俥《くるま》に乗って来たかどうか。どっちから来てどっちの方へ去ったか。金はどんなものに入れて持って行ったか、その他服装や顔立ちなぞをもっと細かく……そして直ぐ帰って来て……」
「アア……モシモシ……アア……モシモシ……狭山さんですか。初めてで失礼ですが……私が当行の支配人|石持《いしもち》です。どうも飛んだ御手数で……先程の二十円札はたしかに当行から岩形さんの代理のお方にお渡ししたものです。実は岩形さんの件に就きましては、その中《うち》に一度お調べを願おうかと思っておりました次第で……岩形圭吾というのは紳士録には青森県の富豪と載っているにはおります。しかし昨日《きのう》、同地方出身の友人に会いましたから、それとなく様子を聞き糺《ただ》してみますと、その岩形圭吾氏と申しますのは本年の二月に肺炎で死亡致しておりますそうで……」
「岩形氏の事は今調べているところです。いずれわかったらお知らせします。……で、それに就いて少々お訊ねしたい事がありますから何卒《どうぞ》御腹蔵なく……」
「は、はい。それはお言葉までもなく……」
それから私が問い糺したところによると、石持氏は流石《さすが》に小銀行の支配人だけあって、相当苦労をしているらしく、着眼点が普通と違っていた。石持氏が真先に気付いたのは、女が平生あまり化粧をした者でない事であった。真白くコテコテと塗り立てているにはいたが、それは処々ムラになっていて、額の生え際なぞは汗で剥げかかっていた。尤も地肌は白い方であったが眉は正《まさ》しく描いたもので、本来の眉よりはずっと幅広く長く見せかけてあった。背丈は普通より稍《やや》高く、五尺三寸位のところで、着物の着こなしがどことなく身体《からだ》にそぐわぬように見えた。姿勢は非常にいい方で、日本人の女としては幾分|反《そ》り気味に見えた。その顔の特徴は二重瞼の張りのある眼と、女にしては強過ぎる程きりりと締まった口元とであった。しかしその言葉付きと眼の光りは、如何にも日本婦人らしい清《すず》しさをあらわしていて、混血児らしいところや、支那婦人らしい物ごしは毛頭感じなかった。
その女は一昨十二日の午後一時きっかりに東洋銀行の表口へ俥を乗りつけて、応接間で石持氏に面会すると、革の手提袋から岩形氏の名刺の下半分と、岩形氏直筆の十一万五千円の受取証と、それから田中春と書いた小型の名刺を出して、つつましやかに石持氏に渡した。石持氏はそれを一応調べると、店員に命じて紙幣を丸テーブルの上に積み上げさせて、念のために今一応自身で勘定をして見せたが、相当時間がかかったにも拘わらず、女は極めて注意深く石持氏の手許を見詰めていたようであった。それから石持氏は、
「どうしてお持ちになりますか」
と訊ねてみると、女は矢張りつつましやかに、
「どうぞ恐れ入りますが新聞紙で真四角に包んで頂きとうございます」
と云ったからその通りにしてやると、女は手提の中から大きな白|金巾《かなきん》の風呂敷を出して、丁寧に包んで、それから俥屋を呼ぶと新橋二五〇九と染め抜いた法被《はっぴ》を着た、若い二十代の俥屋が這入って来た。そうして白い風呂敷包を金とは気が付かぬらしく、女が命ずるままに無雑作に抱え出して俥に乗せた。女はそのまま丁寧に挨拶をして俥に乗って、帝国ホテルの方へ行ってしまったが、支配人と店員の一二名とは見送ったまま門口に突立って、俥のうしろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
「その婦人はどんな香水の香りがしていましたか」
と私は語り終った支配人を追っかけるように訊ねた。支配人は面喰ったらしく急に返事をしなかった。
「……さあ……どんな香水でしたか……アハハ……どうも……」
「そうして岩形氏の預金は、あとにどれ位残っておりますか」
「たしか三万円足らずであったと思います」
「どうも有り難う。いずれ身元がわかったらお知らせします。あ……それから貴下《きか》は岩形氏の住所を御存じですか」
「はい。鎌倉材木座の八五六で岩形と承わっておりますが……」
「その他に、東京の方で事務所か何か御存じですか……通知なぞを出されるような……」
「別に存じませぬ。何分極く最近の取引で、こちらでも行届きかねておりましたような事で……御用の節はいつも岩形さんが御自身にお見えになりましたので……」
「いや有難う。いずれ又……」
と云い棄てて電話を切った。そうして急いで寝室に引っ返して、彼《か》の半分に裂けた岩形氏の名刺を鼻に当てて嗅いでみると果して……果して極めて淡《うす》いながら、疑いもないヘリオトロープの香気が仄《ほの》めいて来た。この名刺が一度、岩形氏の手から女に渡されて、又、何かの理由で岩形氏のポケットに帰って来たものである事は、もはや十中九分九厘まで疑う余地がなくなった。
私は事件のまとまりが、やっと付いたように思ったので内心でほっと安心をした。そうして今聞いた電話の要点だけを熱海検事に報告したが、そのうちに今まで熱心に岩形氏の屍骸の周囲《まわり》を検査していた志免警部は、突然つかつかと私の傍へ近づいて来て、岩形氏の泥靴を私の鼻の先へ突き付けた。
「……何だ……」
と私は面喰って身を引きながら云ったが、志免刑事がそうした理由は直ぐに判然《わか》った。その靴の踵《かかと》の処と、爪先の処に両方とも、普通と違った赤い色の土が、極く細かな線になってこびり付いていた。
「……うん……赤|煉瓦《れんが》の水溜りだね。あそこの家《うち》の……」
と云いながら私はうなずいた。
「……だろうと
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