銀行の連中の言葉や、ボーイの譫言《うわごと》を事実として綜合すれば絶世の美人で、中肉中背のすらりとした姿であろう。
……この日本美人をここから足跡の通りに歩き出さして、昨夜《ゆうべ》した通りの所作を今一度ここで繰返させるとこうなる。……まずボーイに教《おそ》わった通りに階段を昇って、ここに立ち止まって誰も居ない事をたしかめた。その足跡は他のよりも稍《やや》ハッキリしている。それから歩き出して扉《ドア》の処まで来ると、次第に爪先の方に力が入って、遂には爪先だけしか見えないようになっている。これは十四号室の中の様子を覗うために忍び足になったためで、扉《ドア》の処まで来ると腰を屈めて、鍵穴に耳を近づけて中の様子を覗った。把手《とって》の上に軽く残った左手の指紋がそれを証明している。
……ここで初めてこの女に着物を着せる事が出来る。服は勿論洋服で、腰をずっと低くしている割に足の踏み拡げ方が狭く、且つ両方とも爪先ばかりで屈んでいるところを見ると、それは二三年前に流行《はや》った裾の開きの極めて狭い袴《スカート》で、足の位置が割合に扉《ドア》から離れているのは、現在大流行をしている固いコツコツした、鍔《つば》の広い帽子を冠《かぶ》っているためである。その帽子の色は、ボーイの云う通り服の色が黒だったとすれば、黒か藍かの二つの色が一番よく調和する訳で、それ以外の色では十中八九あり得まいと思う。
……なお、この二三年程流行遅れの、質素な黒い洋服をハッキリと思わせる条件がいくつもある。銀行の支配人の言葉によって……これは私だけが聞いた事であるが……その女が、あまり白粉《おしろい》をつけた事がないらしいということ……日本服がよく落着いていなかったという事。紫インキで『タイプライターを扱う女』という事実が推定されること……なぞ……そんな事実を綜合するとこの女は平生洋服を着慣れている……事によるとタイピストかも知れぬと思われる程度の職業婦人である。そうとすれば汚れの着き難《にく》い服の色といい好みといい、丁度その職業にシックリと適当《はま》るものである。
……それからもう一つこの女の、それらしい生活程度を明かに示しているのは、今まで見て来た靴の跡である。この靴は多分舶来のもので三四年前に流行した非常に恰好の良い型であるにも拘わらず、その底と踵が著しく磨滅しているのは、この女が服と一緒に古いものを永らく使用している証拠で、その上にもう一つ想像を逞しくすると、この女は二三年前に外国から帰って来たもので、その時は最新流行の身装《みなり》で帰って来たのが、今は何かの理由でタイピストにまで落ちぶれているのではないかとも考えられる。そうすれば人を殺して迄も金を欲しがる理由が判る。
……この女はここでこんな風に跼《しゃが》んで、室の中の様子を覗った。そうして合鍵で扉《ドア》を開いて中に這入って、泥酔して睡っている岩形氏に麻酔か何かを施《ほどこ》してモルフィンの注射をして、自殺か他殺かの判断を迷わせるために色々な小細工をした。その中に何か物音を聞き付けてハッとしながら、慌てて出て来て見ると、あまり時間がかかるので、心配して様子を見に来たらしいボーイが立ち去るのを見た。それを……こっちへ来て御覧なさい。ここで呼び止めて何事か話し合った。この通り女の靴痕が、ボーイの靴痕と向い合って立っている。そうして話を済ましたボーイが安心して階段を降りて行くのを見送ると、女はもう一度引返して来て扉《ドア》の処まで来た。その足跡は前のと入れ違いになっているが今度は爪先ばかりでなく踵の跡もチャンと附いてずっと大胯《おおまた》になっている。これは犯行後に於て、犯人が非常に落ち着いた場合か、又は非常に狼狽した時にあらわれる足跡の表情であるが、鍵をかけるのも何も忘れて立ち去ったところを見ると、後者に属する足跡と見るべきであろう。
そこで以上述べたところを綜合して考えてみると、つまりこの女は一度関係を結ぶか何かして別れた男が、金持になって、外国から帰って来たのを見て、これを脅迫するか欺《だま》すかして、金を奪った後で、後難を警戒するために殺したものと思われる」
ここまで説明してから、又、十四号室の中に引返して来ると、皆もあとから這入って来た。その扉《ドア》を固く締めてから、熱海検事に脱帽して許可を得た私は、部下を岩形氏の枕元に集めると、次のような命令を下した。
「志免君と飯村君は東京市内と附近の銀行へ、いつもの通りの形式で通知を出してくれ給え。今のような女が、多少に拘らず金を預けに来たら急報してくれるように……それから、これは日比谷署にもお手伝いが願いたいのだが、市内でタイプライターを売っている店はいくらもあるまいから当って見ること……。タイプライターを本職にしている女だったら大抵|家《うち》の近所か、又は勤め先の会社か何かに近い、きまり切った店でリボンを買うものだからそのつもりで……。それから借着屋を当らせること……。着物の種類はわかっているだろう……女がヘリオトロープの香水を使っている事を忘れないように……それからもう一つ新橋二五〇九という俥屋《くるまや》を探してもらいたい……こっちが先かも知れないがその辺は志免君の考えに任せる。相当|手剛《てごわ》い女と思った方が間違いないだろう。……それから二種類の毒薬の分析は無論のこと、屍体解剖の序《ついで》に左腕の刺青《いれずみ》の痕を切り抜いてもらって、残っている墨の輪廓を出来るだけ細かに取っておくように……それだけ……」
命令を終ると皆、眩《まぶ》しそうに私の顔を仰いだ。私の下した判断と処置が、あんまり迅速であったからであろう。皆互に顔を見合わせて突立った切りであった。
やがて志免警部の顔に感動の色が動いた。飯村部長の顔にも動いた。二人とも懐中時計を出して、十時十五分を示している私のと合わせてから、熱海検事と私に一礼すると、日比谷署の連中や、直接の部下と一緒に活動の手分けをすべく、隣りの居室《いま》の方へ退いた。二人の眼には確信の輝きがあった。私の命令の意味を十分に呑み込んで、遠からず女を逮捕して見せるという私の自信を、そっくりそのままに自信しているものと見えた。
けれども私は、居室《いま》に退いた連中が、まだ相談を初めないうちに、突然、眼を閉じて頭を強く振った。
「……オイ……いけない……ちょっと待った……」
「……………」
腰をかけていた連中は皆立ち上った。屍体の足の処を行きつ戻りつして考え初めていた熱海検事も、その位置に停止した。窓の前で何やら話し初めていた杉川警察医と古木書記の二人も皆、面喰った顔を揃えて私の方に向けた。
私は右手でぴったりと額を押えながら杉川警察医をかえり見た。
「杉川君……」
「ハイ」
「先刻《さっき》ボーイの山本が意識を回復した時に……モウ正午《ひる》過ぎですか……とボーイ頭の折井に訊ねたのは、単に寝ぼけて云ったのでしょうか……それとも何か理由があって訊いたのでしょうか」
杉川医師もちょっと横額《よこひたい》を押えた。
「サア。その辺はどうも……」
「私が行って訊いてみましょうか」
と轟刑事が進み出た。
「ああ。そうしてくれ給え。今日の正午《ひる》まで妾《わたし》が来た事を黙っていてくれるように……と云って、女から頼まれたんじゃないかと云って、うんと威《おど》かしていい……心臓痲痺を起さない程度に……ハハ……」
私の言葉が終らないうちに轟刑事は、うなずきながら室《へや》の外へ辷り出た。その小走りの跫音《あしおと》が聞えなくなると室《へや》の中が急に森閑となった。窓の外をはるかに横切る電車の音ばかりが急に際立って近付いて来た。
厳粛な二三分が、室《へや》の中を流れて行った。
そのうちに階段を駈け上る跫音が聞えたと思う間もなく轟刑事が息を切らして這入って来た。
「お察しの通りです。午砲《ドン》が聞えたら警察に自首して出ろ。その通りにしなければお前は生命《いのち》が危い。そうしてもしその通りにしたならば妾《わたし》がどこからか千円のお金を送ってやると云ってボーイの母親の所番地を聞いて行ったそうです」
「そうして又、気絶したかね」
「助けて下さいと云ってワイワイ泣き出しました」
「ハハハハハ。正直な奴だ。それじゃ今の命令は全部取消しだ」
「エッ」
と皆は又も電気に打たれたように固くなった。その驚きと疑問に充《み》ち満ちた顔を見廻しながら私は冷やかに笑った。
「うっかりしていた。もう少しで犯人を取逃がすところだった……」
「……………」
「誰か最近の新聞で、横浜と、神戸と……いやいや東京ので沢山……今日の新聞を持っていませんか」
古木書記は弾《はじ》かれたように両手をポケットに突込んで、今朝の東都日報を私の前に差出した。私はそれを手早く拡げて、広告欄の下の方を見廻した。
「よろしい。今日横浜から出る船は桑港《シスコ》行きで午前十一時の紅海丸しかない。神戸行きの方はリオン丸と筑前が欧洲航路だが、これは長崎に寄るのだから、まだ大分時間がある。下関なし。敦賀なし。函館もなしと。よしよし。志免君は、すぐに横浜へ電話をかけて、紅海丸の乗客を出帆間際まで調査するように頼んでくれ給え。念のために電報を打っといた方がいいだろう。変装しているかも知れぬと注意しておき給え。十一時過ぎて何の返事もなかったら、神戸と下関と長崎と函館へ手を廻してくれ給え。それから先の方針は前の命令の復活だ。……僕はこれから弥左衛門町のカフェー・ユートピアへ行く。すこし疑問の点があるから……当りが付いたら電話をかけ給え。あとはこっちから役所へ電話をかける……それだけ……」
「承知しました」
「では行って来る」
「ちょっと……待って下さい」
今まで黙って聞いていた熱海検事は、出て行こうとする私を遠慮勝ちに呼び止めた。そうして氏一流の謹厳な態度で私の方へ近づいて来た。
「狭山さん。貴方のお考えは実に御尤も至極ですが、それに就《つい》てちょっとお伺いしたい事があります。これはほんの参考のために過ぎないのですが」
丁度|扉《ドア》に手をかけていた私は、そのまま振り返った。こんな温柔《おとな》しい検事が一番苦手だと思いながら……。
「何ですか」
「貴方はどうしてもこの屍体を他殺とお認めになるのですか」
そう云う熱海氏の静かな音調には、ほかの生意気な検事連中にない透徹した真剣さがあった。私は私の自信を根柢から脅かされたような気がして思わず熱海氏の方に向き直った。
「……無論です。犯人が居るから止むを得ません」
「その婦人は果して犯人でしょうか」
「無論です。挙動が証明しております。……のみならず一度閉まっていた扉《ドア》がどうして開いたのでしょう」
「合鍵はこのホテルに別なのがあります」
検事の言葉がだんだん鋭くなって来た。それと反対に私は落ち着いて来た。
「それは支配人が自分で金庫の中に保管しておりますので特別の場合しか出しませぬ」
「……しかし……私が最初にこの室《へや》に這入った時には、絨毯《じゅうたん》の上には紳士の足跡と、ボーイのと、支配人の靴痕しかなかったようですが……支配人もボーイも承認しておりますので、それ以外に靴の痕らしいものはなかったのですが……」
「絨毯の毛は時間が経つと独りでに起き上るものです。ことにあんな風に夜通し窓を明け放ってあります場合には、室《へや》の中の物全部が湿気を帯びる事になるのですから、絨毯の毛は一層早く旧態に返るのです。ですから紳士の足跡は泥で判然《わか》っても、女の足跡は残っていないのが当然なのです。支配人とボーイのは新しいからよくわかったのでしょう。……とにかくこの場は私に委せて頂きたい」
と云い棄て私はホテルを飛び出した。そうしてホテルの前の広場に立って今一度、二階の左から五ツ目の窓を振り返ってみると、そこには熱海検事の顔が出ていて、気遣わしそうに私を見送っていた。
これから先、私がどんな風に活躍したかという事実は、正直のところを云うと私としてはあんまり公表したくない
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