頸筋の処を揺り動かした。それから髪毛の中に指を入れて二三箇所いじり廻した。そうしてその長い鬢《びん》の生え際を引き剥がすとそのまま、丸|卓子《テーブル》の上にうつむいて両手をかけて仮髪《かつら》を脱いだが、その下の護謨《ごむ》製の肉色をした鬘下《かつらした》も手早く一緒に引き剥いで、机の上に置いた。
 その下の真物《ほんとう》の髪毛は青い程黒く波打ったまま撫で付けにしてあったが、同時に鬘下で釣り上げられていた眉、眼、頬はふっくりと丸くなって、無邪気な、可愛らしい横顔に変ってしまった。最後に女は巧みに貼り付けてあった眉毛を引き剥ぐと、顔を上げて真白に化粧を凝らした少年の顔を百燭の光りに曝《さら》した。
 私は眼を剥いてその顔を睨み付けた。
 魂がパンクする事を私は生れて初めて経験した。われと吾が肝の潰れる音を聞いた。
「……紫の……ハンカチ……」
 という言葉が出かかって、そのまま咽喉《のど》にこびり付いてしまった。外に出たのはその口付きと呼吸《いき》だけであった。
 少年はもう一度真赤になって微苦笑した。そうして今朝《けさ》の通りの凜々《りり》しい声を出した。
「あれはカルロ・ナイン殿下から頂きました。藤波弁護士に父の遺言書を渡したという合図に使いました。日本政府の手でJ・I・Cが退治られなければ、僕等の手でやっつける覚悟だったんです」
 私はもう驚く力がなくなったらしい。何だか急にがっかりしてしまって、ぶっ倒れそうな気だるさに襲われながらも、きょろきょろと左右の入口をかえり見た。
 少年はその意味を覚ったらしく、直ぐに左側の扉《ドア》を開いて、首をくくった自分の死骸を片手で軽々と外して来た。それは紫の紐《ひも》で首を縛った空気入りの護謨《ごむ》人形で、少年が手品に使用したものを油絵具か何かで塗り直して扉《ドア》の上の框《かまち》に突込んだ白箸《しろばし》に引っかけたものらしかった。少年は、その白箸ごと抜いて来て、無気味な恰好の人形を私の眼の前にぶら下げて見せながら、玄関口の扉《ドア》に向って心安げに叫んだ。
「……志免さん……お母さん。もうよござんすよ」
 声に応じて待ち構えていたように右手の扉《ドア》が開いた。左腕を繃帯と油紙で釣った志免警視が、白い歯を見せながら、短いサアベルをがちゃ付かせて這入って来た。そのあとから白襟の礼装のまま化粧だけ直した志村のぶ子が、近眼鏡をかけ直しながら、おずおずと這入って来たが、流石《さすが》に云い知れぬ喜びと、初めて私の前に出て来る気味悪さとに包まれているらしく、心持ち顔色を青くしながら、縮れ毛を染めた束髪の頭を下げた。志免警視はにこにこして紹介した。
「……課長殿(志免警視は自分が課長の癖にいつまでも私を課長殿と呼んだ)……志村未亡人です」
 二年|前《ぜん》の記憶をまざまざと喚び起した私は、顔の皮膚が錻力《ブリキ》のように剛《こわ》ばるのを感じた。お辞儀を返したかどうか記憶しないまま突立っていた。
「いや……面喰いましたよ。ははは。何しろ事が急だったもんですからね。課長殿と打合わせる隙《すき》がなかったんです。……ちょうど三時頃だったと思いますが、藤波君から電話がかかって、嬢次君から志村浩太郎君の遺言書類を受け取ったという概略の報告をして来たのです。それを聞くととても重大問題で、うっかりすると親玉を取り逃がしそうな形勢ですから、総監と打ち合わせをしているところへ、藤波君が飛び込んで来て、総監を引っぱり出して、外務省から内務省、検事局と稲妻みたいに活躍し初めたのです。……一方に私は私で一生懸命に貴方を探したんですけど、その時はどうしても見当らなかったんです。貴方がおいでになれば何でもなく片付いたんでしょうけれども……お蔭ですっかり蜂の巣を突っついたようになっちゃって非道《ひど》い眼に会いましたよ。ははは。しかし課長殿もこれで清々されたでしょう。はははははは」
 警官|気質《かたぎ》で無遠慮な志免刑事は、紹介とごちゃ交ぜに弁解しながら顔を撫でた。その中を志村未亡人は進み出て、顔も上げ得ないまま、切れ切れに挨拶をした。
「……お顔を合わせます面目もございませぬ。……何から何まで御恩になりまして……お蔭様で、無事に……伜の願いまで叶いまして……もう……思い残しますことは……」
 と云ううちに胸が一ぱいになったのであろう。ハンカチを顔に当てて肩を戦《おのの》かした。すると、それを……見っともない。お止しなさい……というかのように嬢次少年が、丸|卓子《テーブル》を抱え起したり、毀《こわ》れ物を片付けたり、奥の室《へや》から椅子を持って来たりし初めた。
 その時に門の中に敷き詰めた房州石の上をどっしどっしと歩いて来る靴の音と、ちょこちょこ走りに連れ立って来る小さな足音が、入れ交《まじ》って聞えて来た。その足音を聞くと志免警視が急いで玄関に出迎えて、何か二言三言報告じみた言葉を交換しながら請じ入れたが、這入って来た人物を見ると、頭を繃帯で巻き立ててはいるが、さしもに豊富であった黒髯を、見事に剃り落して、軍艦の舳《へさき》のような顎をニューと突き出したハドルスキー……紛う方ない樫尾初蔵氏の堂々たる陸軍大尉の制服姿で、胸に帯びた略綬の中には功四級のそれさえ見える。それからもう一人は白狐の外套に、黒|貂《てん》の露西亜《ロシア》帽を耳深に冠った、花恥かしいカルロ・ナイン殿下であったが、急いで歩かれたせいか真赤に上気しておられるのが、又なく美しく、あどけなく見えた。志免警視と嬢次|母子《おやこ》は、それとなく壁際に片寄ってゴンクール氏の死骸を隠すように立ち並んだ。
「いや。松平閣下の自動車は大型で淀橋からこっちへは這入らないのでね。うっかりして殿下をお歩かせしてしまいました」
 そう云ううちに樫尾大尉は、死骸の方へは眼もくれずにつかつかと這入って来て、私の前で直立不動の姿勢を執ると、恭《うやうや》しく名刺を差出した。そうして心持ち上半身を傾けたまま、如何にも軍人らしい太い声で挨拶をした。
「私は先年御高配を蒙りました樫尾初蔵でございます。その節は失礼ばかり致しましたにも拘らず、御容赦を得ました段、篤く御礼を申上げます。……又、この度は一方ならぬ御配慮を煩わしまして……」
 私は何かなしにほっとした気持になりつつ礼を返した。二人は何等隔意のない態度で向い合ったまま、互の顔を正視し合った。
「実は一昨年、志村未亡人と御一緒に日本を出発致します際の御相談では、今度日本に参ります際には、何もかも直接貴方に御相談して致したい考えでおりましたところ、貴下の御辞職の御事情を蔭ながら拝承致しましたので、それではこのような危険な仕事をお願い致す訳には行かぬ。科学の研究以外にお楽しみのない貴方のお身体《からだ》に、万一の事があってはならぬ。失礼ではありますが狭山様は成るべく危険な区域にお近づきにならぬようにしてあげねば……という志村未亡人の御注意がありましたのでその方の手配を嬢次君とお母様の思い通りにして頂く事にして計画を立てました。そうしてJ・I・Cの日本到着後の活躍を見定めて、動かぬ証拠を押えてから、警視庁の御助勢を得まして一挙に撃滅する考えでおりましたところが、嬢次君が思いもかけませぬお父さんの遺書を発見したのみならず、激昂の余り、独断で行動を初めましたために、事件が意外に急速な発展を致しまして、私も面喰いましたような事で、思わぬ失礼を致しました。
 ……一方に話が相前後致しますが、私共が日本に到着致しますと同時に松平男爵閣下から『構わぬから大ぴらで遣れ。外交上の面倒は引き受ける。日米親善も日仏協商も、日英同盟も気にかける必要はない。飛行機戦と潜水戦を二十年間続け得る準備が出来ているから』……とのお話がありまして、高星総監に御紹介を受けておりましたので、皆様とよくお打ち合わせする隙《ひま》もないまま思いきった御処置を志村さんにお願いする一方に、悪い事とは存じながら嬢次君に色々と芝居をしてもらいまして、却って御心労をかけるような事に相成りまして面目次第も御座いませぬ。何事も私の微力の致しますところと思召《おぼしめ》して平《ひら》にお許しの程をお願い致します。
 ……しかし幸いに天祐を得ましてこの奸悪団体を二重橋橋下に殲滅《せんめつ》しまして、吾々大和民族の前途を泰山の安きに置くを得ました事は、邦家のため御同慶に堪えませぬ。何卒これを御縁と致しまして何分の御庇護のほど、謹んで希望に堪えませぬ」
 私は無言のまま、そんな固くるしい挨拶を受ける器械みたように腰を折り曲げて礼を返した。そうして挨拶を終るや否や、待ちかねたように掌《てのひら》の中の名刺を見たが、その名刺には矢張り「予備役陸軍歩兵大尉……樫尾初蔵」という二年|前《ぜん》の変名が使ってあった。
 二人はそのままもう一度無言の裡に眼と眼を見交した。その樫尾大尉の艱難《かんなん》に鍛い上げた皮膚の色と、鉄石の如き意志を輝かす黒い瞳を正視した瞬間に、私はすべてを察してしまった。
[#ここから1字下げ]
……この本名の判らない男こそ真個《ほんとう》の「暗黒公使《ダーク・ミニスター》」である……大和民族の危機を救うべく、世界を跨にかけて活躍奮闘している孤独のダーク・ミニスターである。……今度の事件のからくりは全部この男の仕事なのだ。……この男は嬢次母子や、かくいう私を犠牲にする位の事は、何とも思わないで自由自在にこき使ったのだ……俺は到底この男には適《かな》わない。否々。嬢次母子の気強さにも、志免警視の勇敢さにも俺は到底|敵《かな》いっこないのだ。
……早く警察界を引退していてよかった……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と……。その時に樫尾大尉は、傍《かたわら》のカルロ・ナイン殿下をかえり見て何やら眼くばせをした。殿下は大尉の顔を見て莞爾《にっこり》とうなずかれると、つかつかと私に近寄って、小さな手をさし出された。私は又も文句なしにその手を握らせられた。
「……サヤマ……サン。アリガト。フランス……ノ……チチ……ニ……テガミ……デ……シラセ……マス……」
 という無邪気な日本語が殿下の唇から洩れた。私は露西亜の双鷲《そうしゅう》勲章を受けた以上の感激に打たれて、思わず最敬礼をお返ししたのであったが、その瞬間に私は、私の第六感の暗示が一つ残らず鮮かに的中していた事を覚ったのであった。そうして又それと同時に、その第六感の暗示を判断した私の頭が、如何にみじめなあたまと行動であったかを覚らせられて、気が遠くなる程の面目なさを感じさせられつつ恐る恐る机の前に引返したのであった。
 ……これを仏蘭西のウラジミル大公に報告されてなるものか……。
 と吾れにもあらず赤面しつつ……するとその私を追いかけるように樫尾大尉が進み出て私に一通の手紙を渡した。
 それは日本封筒に私の名前だけを書いたもので署名は松平友麿となっている。何事かと思って封を開いて見ると、それは明後日の午後六時から、男爵の私邸で小宴を開くから来てくれという意味の、儀礼をつくした案内状で、最後に出席する人々の名前が書いてある。
[#ここから1字下げ]
カルロ・ナイン殿下。高星警視総監。狭山九郎太。志免警視。藤波弁護士。志村のぶ子。呉井嬢次。樫尾初蔵。松平男爵夫妻……以上……。
[#ここで字下げ終わり]
 私はすぐにこの招待の意味を覚った。当日一同が打ち解けた席上で、もう一度今日の話をくり返して恥の上塗りをしなければならぬ事を知りつつ、どうしても後へ退《ひ》けない事を覚悟した。
 私が承諾した意味を答えると、樫尾大尉は巨大な体躯を傾けて一礼しつつ、辞し去ろうとした。するとその時に嬢次少年は私の背後の机の下の暗い処から、黒いボックス皮の手提鞄を取り出して、中に詰まっている絵葉書を掻き廻していたが、やがてその底の方から、四角に折った薄い新聞包を取り出すと、帰りかけた樫尾大尉を追かけるようにして、無言のまま手渡しした。
 受け取った樫尾大尉は、半身を振り返らしたまま不審そうに少年の顔と新聞包を見比べた。
「何ですか……こ
前へ 次へ
全48ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング