れは……」
少年は化粧したままの顔で微笑した。
「これは米国の参謀本部で作った日本地図の青写真の写しです。秘密の石油タンクのあり家を予想して赤丸を附けてあるのです」
「ホー。どうしてそんなものがお手に入りましたか」
と云ううちに流石《さすが》の樫尾大尉も昂奮したらしく顔を赤くした。
「それを手に入れようと思って随分苦心したのですが……帝国ホテルにも曲馬場にもなかったのですが」
嬢次少年も顔を染めた。
「……バード・ストーン団長が持っているのを、市俄古《シカゴ》から桑港《サンフランシスコ》まで来る汽車の中で盗み出して写したのです。寝間着《パジャマ》を着た貴婦人に化けて寝台車に這入って、団長の化粧品箱の中から盗み出して、便所でレターペーパーを十枚程使って透き写しをしたのですから、とても判然《わか》り難《にく》いでしょうと思うんです。けども専門家の方が御覧になったら、あらかたの見当はお付きになるだろうと思いましたから……」
樫尾大尉は深くうなずきながら、私達を見まわしつつ、新聞包をポケットに納めた。
「しかしその写されたあとの青写真は……」
「又もとの通りに畳んで、化粧箱の中へ返しておきました。けれどもその後船の中でもう一度、もっとハッキリ写そうと思って探した時には、もうどこにもなかったようです。きっと団長が地図を諳記してしまって焼き棄てたのだろうと思うんですが……ですから僕はその地図をとても大切にして、誰にも話さずに鞄の二重底に隠して、その上から絵葉書を詰めて誤魔化しておいたんです。……けれども万一、あの曲馬団がやられる時に、どさくさに紛れて外《ほか》の人間の手に渡って反古《ほご》にされるような事があったら大変と気が付きますと、何でも自分の手に奪い取っておきさえすれば安心と思いましたから、直ぐ狭山さんにお手伝いをお願いして取りに行ったのです。……僕が曲馬団を飛び出す時に、その地図の事を忘れていたのが悪かったんです。御免なさい」
と少年は率直に頭を下げた。樫尾大尉は初めて破顔一笑した。
「あはは……あやまる事はないです。金鵄《きんし》勲章です。もしこの地図が米国の参謀本部で作製されたもので、その中の一枚を団長が貰っていたものの写しとすれば非常なものです。比律賓《ヒリッピン》の飛行隊が日本を襲撃して重爆弾を投下する場所が明瞭にわかる筈ですからね。はははは……」
樫尾大尉のこの無造作な一笑は、聞いている一同の胆を奪うのに十分であった。それは米国何者ぞという日本政府の意気込みを暗示していると同時に、一介の少年呉井嬢次の功績の想像も及ばぬ偉大さを十分に裏書するものであったから……。
その一同の気を呑み、声を呑んだ緊張の裡に樫尾大尉は改めて繃帯をした頭を下げると、傍《かたわら》をかえり見て、睡《ねむ》たそうな顔をしておられるカルロ・ナイン殿下の手を率《ひ》きながら辞し去った。
出て行きがけにカルロ・ナイン殿下は行儀よく頭を下げて、
「……サヨウ……ナラ……」
と云われた。その無邪気さと気高さに、一同は思わず最敬礼をさせられた。志免警視は玄関に詰めている刑事の中の二名に淀橋まで見送らせた。
あとを見送った私は、室《へや》に帰ると、死骸の始末も何も忘れたまま机の前の肘かけ椅子にどっかりと身体《からだ》を落し込んだ。急にぼんやりとなって来た眼の前の空気を凝視しながら、太い溜息と一緒につぶやいた。
「……わから……なかった……」
そうしてうとうとと眼を閉じかけた。たまらなく睡くなって来たので……。
「あっはっはっはっはっはっ」
と志免警視が明るい声で笑い出した。矢張り死骸の事も忘れる位いい心持になっているらしく、私の真向いの椅子にどっかりと反り返りながら……、
「……わっはっはっはっ。流石《さすが》の課長殿も一杯喰いましたね。はっはっ。しかし今度の事件は全く意外な事ばかりだったのです。第一ハドルスキーが樫尾大尉という事は、僕ばかりでなく、松平局長も二三日前まで知らなかったそうですからね。一方に、あの曲馬団をあれ程に保証した××大使が今になって急に、あんなものは知らないとあっさり突き離すだろうとは樫尾大尉も思わなかったそうです。……僕等は又僕等で、あの曲馬団で無頼漢《ごろつき》どもが、日本の警察を紐育《ニューヨーク》や市俄古《シカゴ》あたりの腰抜け警察と間違えるような低級な連中ばかりだろうとは夢にも思いませんでしたからね。新聞記者を連れて行けば、こっちの公明正大さが大抵わかる筈と思ったんですが……何もかも案外ずくめでおしまいになっちまいましたよ。はっはっはっ」
「おかげ様で本望を遂げまして……」
と志村のぶ子が相槌を打った。
「……いやア……貴女《あなた》方の剛気なのにも驚きましたよ」
と志免警視はどこまでも明るい声で調子に乗った。一事件が済んだ後《のち》で私の前に来ると志免はいつもこうであった。
「……ゴンクールはきっと僕が生捕《いけどり》にして見せるからと云って嬢次君が藤波弁護士にことづけたんですけど、何だか不安でしようがなかったんです。……その上に樫尾君が事件の号外は新聞社に出させてもいい。現在の日本の新聞では号外に着手してから刷り出す迄の時間が最少限一時間程度で、横浜はそれから又三十分位遅れて出るのだから、その加減を見て横浜のグランドホテルに居るゴンクールに電話をかければ彼は東京と横浜の号外をドチラも見ないまま狭山さんの処へ来る事になる。一方に狭山さんは号外を見ておられるにきまっているからとても面白い取組になる。又、万一、途中でゴンクールが気が付いて逃げ出したにしても、大抵胆を潰している筈だから二度と手を出す気にはなるまい。あんな奴は国際問題に手を出す柄じゃない。市俄古あたりの玉ころがしの親分が似合い相当だと云うのです。私も成る程とは思いましたが、聊《いささ》か残念に思っているところへ、帝国ホテルで荷物片付の指揮をしながら、私共の通訳をして美人連中を取調べていた樫尾君が、今柏木の狭山さんの処に居るゴンクールから電話だ……と云った時には飛び上りましたよ。天祐にも何にも向うから引っかかって来たんですからね……取るものも取りあえず部下を引っぱって向うの門の処まで来てみたんです。……ところが来てみると課長殿が窓一ぱいに立ちはだかって腰のピストルをしっかり握り締めながら、室《へや》の中を覗いておられるでしょう。そこで此奴《こいつ》はうっかり手が出せないなと思ってそーっと課長殿の背後《うしろ》の椿の蔭から覗いて見ると驚きましたねえ。……あのゴンクールの銃先《つつさき》を真向《まとも》に見ながら、あれだけの芝居を打つなんか、とても吾々には出来ません。扉《ドア》の外で黙って見ているお母さんの気強さにも呆れましたが……手に汗を握らせられましたよ。まったく……」
志免警視は心から感心したらしく眼をしばたたいた。先刻《さっき》からてれ隠しに台所の方へ出たり入ったりしてお茶を入れかけていた嬢次|母子《おやこ》は首すじまで赤くなってしまった。
「……いいえ……何でもないんです」
と云ううちに振袖に赤い扱帯《しごき》を襷《たすき》がけにして、お茶を給仕していた少年は、汗ばむ程上気しながら椅子に腰をかけると、手を伸ばして背後《うしろ》に横たわるゴンクールのポケットから巨大なブローニングを取り出した。その銃口《つつぐち》を覗いて見ながら……、
「……何でもないんです。今朝《けさ》早くお母さんに合鍵を渡して、ゴンクールの寝室から生命《いのち》がけでこのブローニングを取って来てもらったのです。僕が行ってもよかったんですけど、母が承知しなかったもんですからね。そうして銃身の撥条《バネ》を墨汁《すみ》で塗ったヒューズと取り換えておいたのです。……ですから撃鉄《ひきがね》を引いても落ちやしないんです。この通りです」
と云ううちにゴンクール氏の心臓に向けて撃鉄《ひきがね》を引いて見せた。
……轟然一発……。
薄い煙がゴンクール氏を包んだ。白いワイシャツに黒い穴が開いて、その周囲《まわり》を焼け焦げが斑々《まだらまだら》にめらめらと焼け拡がった。……と見る間にその下の茶色の毛襯衣《けシャツ》の下から、黒い血の色が雲のように湧き出した。
「……あれっ……」
と母親が悲鳴をあげた。
玄関に残っていた四名の刑事も驚いたらしく、どかどかと這入って来たが、志免警視に支えられたまま一斉に屍体を凝視した。
「むむむむ……うう……」
と呻吟《しんぎん》しつつ屍体が強直したと思うと、起き上るかのようにうつ伏せに寝返ったが、そのまま又べったりと長くなってしまった。ごろごろと咽喉《のど》を鳴らして赤黒い液体を吐き出しながら……。
皆立ったまま顔を見合わせた。一人残らず色を失っていた。
思わず立ち上って屍体をじっと凝視したまま、唇を噛んでいた少年も、全く血の気をなくしていた。そうしてぶるぶると震え出しながら、力なくブローニングを取り落すと、がっくりとうなだれたまま志免警視の方に両手をさし出した。涙がはらはらと床の上に滴り落ちた。
「……縛って……下さい。僕は……人を殺しました」
「あはははははは」
と志免警視は又も制服を反《そ》りかえらして笑い出した。剣の柄をがちゃがちゃと乗馬ズボンの背後《うしろ》に廻しながら、帽子をぐいと阿弥陀《あみだ》にした。
「……ゴンクールの奴、途中で気が付いて取り換えやがったんだ。……あはははははは……自業自得だ……」
皆呆れて志免警視の顔を見た。
「いや……心配しなくてよろしい……君は無罪だ」
「えっ……」
と少年は初めて顔を上げた。意外の言葉に眼を輝かしながら……。
志免警視は一歩進み出て少年の肩に手を置いた。
「……正当防衛にしといて上げる。実はゴンクールの自殺なんだけど……あはははは……ねえ諸君そうだろう」
皆一斉にほっと安堵《あんど》のため息を吐いた。
そのうちに嬢次|母子《おやこ》は思わず抱き合って嗚咽《おえつ》の声を忍び合った。一同は粛然と首低《うなだ》れた。
私も椅子に腰をかけたままがっくりとうなだれた。……日本と米国の飛行機が入り乱れて戦う夢を見ながら……。
× × ×
これ位でよかろう。
あとは書いても詰まらない事ばかりだから……。
しかし次の二三項だけはこの事件のお名残《なごり》として是非とも読者諸君に報告しておかずばなるまい。
志村浩太郎氏の遺産は藤波弁護士の尽力で、全部、志村|母子《おやこ》からの寄附の名の下に、死傷者の手当見舞、慰労と、帝国ホテルの損害賠償とに費消された。
樫尾大尉は、翌々晩……忘れもしない大正九年三月二日の夜の松平男爵の招宴をお名残として、又も行方を晦《くら》ましてしまった。あたまと体力を使いきれないで困っているのはあの男であろう。
それからカルロ・ナイン殿下はその後ずっと松平子爵の処に居て、西比利亜《シベリア》の形勢を他所《よそ》に益々美しく大きくなっておられたが、セミヨノフ将軍が蹉跌《さてつ》して巨大な国際的ルンペンとなり、ホルワット将軍が金を蓄《た》めて北平《ペーピン》に隠遁したあとは、巴里《パリー》に隠れておられる父君ウラジミル大公……仮名ルセル伯爵の膝下《しっか》に帰って日本名を象《かたど》ったユリエ嬢と名乗り仏蘭西の舞踏と、刺繍と、お料理の稽古を初められた。
伜のミキ・ミキオ……戸籍名狭山嬢次とも大変にお心安くして下さるようである。
底本:「夢野久作全集7」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年2月24日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年12月27日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文
前へ
次へ
全48ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング