本社の探聞し来《きた》れるところに依れば、今回の事件は前警視庁第一捜査課長狭山九郎太氏の辞職と重大関係あり。すなわち右曲馬団員は某国々事探偵の一団にして、欧米各国及び東洋の暗黒街より招集せし無頼漢を以て組織しあり。今回の如き無智にして、且つ兇猛無鉄砲なる反抗を試みたるは、日本の警察を自国のそれと同視したる結果と見るを得べし。又団長バード・ストーン氏は××資本団の手先となりて各国の反乱革命を助長する暗黒公使の名あり。目下進行中の××協商に対し、何等かの暴力的手段に依り障害を与うる目的を以て、曲馬団を装いて渡来せるものの如く、同曲馬団員にてカルロ・ナイン嬢と共に花形役者たりし伊太利《イタリー》少年、ジョージ・クレイの逃亡直後にこの事変の勃発せるより見れば、同少年もこの事件に関係なきを保し難し。而して前課長狭山九郎太氏は、この曲馬団の渡来以前に逸早くこの曲馬団の内容を看破し、総監室に於て総監と高声に激語し合いたる事実あり。同室内の反響甚しかりしを以て詳細の点は聴取し難かりしも狭山課長が日本の某国に対する軟弱外交を非難罵倒せるに対し、総監が極力これを説服せむと試みたるは事実なり。そして狭山課長はその翌日辞表を提出したるものなるが、その後本紙上に於て屡々《しばしば》報ぜし通り、××協商が行悩みとなり、吾国の国防と外交が極度の孤立|屏息《へいそく》状態に陥りおりたる折柄、突如としてかかる対×国外交の硬化を象徴する事件の勃発を見たるは右××協商の経過が、外電報ずるところの愛蘭《アイルランド》の独立に関する英米関係の悪化に影響せられて好転し、国防基礎を確立したるものと見るべき理由ありと観測せられつつあり。


     狭山氏は今朝より不在[#大文字]
         留守宅には盛装の二婦人[#中文字]

 因《ちな》みに前記の如く、今回の事件に大関係ありと目さるる狭山九郎太氏は今朝来いずれへか外出しおり柏木の自宅には親戚と称する盛装の二婦人が留守居して長閑《のどか》に紅茶を啜りおるのみ。事件の勃発を全然関知しおらざるものの如し。【狭山註――以上号外原文のまま挿入】

 この号外を訳読した女の英語は、恰《あたか》も英国の社交界の婦人のそれの如く流麗で、明晰であった。そうして読み終ると旧《もと》の通りに丁寧に折り畳んで、丸|卓子《テーブル》の真中に置いて、その上から角砂糖入れを重石《おもし》に置いた。その前に両手の指を支えて、室《へや》の隅に倚りかかって坐っているゴンクール氏を見下しつつ、謹厳な日本語で言葉をかけた。
「……ゴンクール様。わたくしから貴方に申上げねばならぬ事はこれだけでございます。……おわかりになりますか。わたくしの申上げております事が……。亡くなられましたお父様……志村浩太郎様と、嬢次様|母子《おやこ》の貴方に対する復讐はこれでおしまいなのでございますよ。妾《わたし》の役目はもうこれですっかりおしまいなのでございますよ。
 ……わたくしは皆様に代りまして貴方にお礼を申上げます。よく今まで御辛棒なすって、わたくし達の復讐をお受けになって下さいました。もう決してこの上に御迷惑はかけませんから何卒《なにとぞ》御安心下さいまし。わたくし達はもう死ぬよりほかに仕事が残っていないのでございますから……。その約束の時間は今から……七分……きっちり九時でございます。お喜び遊ばせ。貴方は今から七分経ちますれば、元のバード・ストーン氏にお帰りになる事が出来るのでございます。そうしてもし御運が強ければ無事に本国へお帰りになる事が、お出来になるかも知れないのでございます。
 ……もし御用でもございましたならば、どうぞ今の中《うち》に仰有《おっしゃ》って頂きとうございます。私はお待ち致しております」
 女の言葉はここでふっつりと切れた。
 併し相手は動かなかった。殆んど一点の生気もなく横わっていた。
 否……唯一度、女の言葉が切れると間もなく、微《かすか》に眼を上げて、女を見ようと努力したようであった。けれどもそれはただそう見えただけで本当は動いたのかどうかわからなかった。
 女は身じろぎもせずにそれを見つめている。
 室《へや》の中に再び墓の中の静寂が充ち満ちた。
 ……突然じりっと微かな音がした。
 それは時計の時鐘《じしょう》が、九時を打つ五分前に、器械から外れた音であった。
 その音を聞いた瞬間にゴンクール氏の全身に、見えるか見えぬ位の微かな戦慄《せんりつ》が伝わったが、直ぐに又静まった。そうしてそのあとから次第次第に氏の呼吸が高まって来るのが見えた。遂には硝子《ガラス》窓の外からでも明らかにその呼吸の音が聞き取れる位になった。
 氏は意識を回復し初めたのである。しかもそれは生きた人間としての意識ではないように見えた。逃れようにも逃れられない、広い、淋しい幽冥に引っぱり込まれていた氏の魂が、更に一層深い恐怖に襲われたために藻掻《もが》き初めたものらしい。氏は大浪を打つ呼吸の裡に、光りのない眼をソロソロと開いた。ほとんどあるかないかの努力で、恐ろし気に瞳を這わせつつ、辛うじて左右を見た。恰もそこいらに嬢次親子が立っているかどうかを確かめるように……そうして虫の這うようにそろそろと女を見上げつつ何か云おうとしたが、唯だらりと開いた唇がブルブルと慄《ふる》えるのみで、舌が硬ばっているために声が全く出なかった。それでも氏は云おうと努力した。……一度……二度……三度……目にやっとかすれた声で……殆んど言葉をなさぬ言葉が咽喉《のど》の奥から出た。
「……ア……ア……ナタ……ノ……ナマ……エハ……」
「ホホホホホホ。妾の名前でございますか。貴方はよく御存じでございましょう。ジョージ・クレイでございます」
「……………」
「貴方は最前|仰有《おっしゃ》ったでございましょう。わたくしは嬢次様に乗り移られていると……その通りでございます。わたくしは姿こそ女でございますが、心は呉井嬢次でございます。いいえ。身も心も嬢次様のものでございます。わたくしの名は呉井嬢次と思召《おぼしめ》して差支《さしつかえ》ございませぬ。……お尋ねになる事は、それだけでございますか」
「……………」
 ゴンクール氏は、なお幾度も何事かを云おうとした。力のない手付きで襟《カラ》を引っぱって、咽喉《のど》を楽にしようとこころみつつ片手を突ついて女の顔を見上げた。そうしてそこで女と顔を見合わせたままピッタリと動かなくなった。死の世界へ陥りかけて、まだ微かに生気を取り残している慌しい「魂《たましい》」と死の世界に生きている静かな「霊《れい》」とはこうして互に顔を見合ったまま何事かを語り合おうとしていた。けれどもゴンクール氏は遂に口を利く事が出来なかった。ただ、片手で髪毛を掻き乱し、頬を撫でて犬のように舌をわななかしたと思うと、それっきり両手を支《つ》いてぐったりとうなだれてしまった。氏の魂は最早《もはや》、驚く力も、恐るる力もなくなったのであろう。
 女は冷やかにそうしたゴンクール氏を打ち見遣った。そうして、しとやかに身を返して本箱のうしろから小さな白紙に包んだものを取り出して、静かに丸|卓子《テーブル》の上に置いた。大切そうにその包紙を取り除《の》けると、中から現われたものは小さな足付きの硝子《ガラス》コップで、中には昇汞水《しょうこうすい》のような……もっと深紅色の美しい色をした液体が四分目ばかり湛えられてあった。
 女はそれを前に置いて立ったまま、心静かに衣紋《えもん》を繕った。帯の間から櫛《くし》を出して後《おく》れ毛を掻き上げた。次には袂《たもと》から白の絹ハンカチを出して唇のあたりをそっと拭いた。そうして最後に、何事かを黙祷するようにうなだれた。
 ゴンクール氏の呼吸はいつの間にかひっそりと鎮まっていた。卓上電燈の光りは女と、その投影《かげ》に蔽われた男を蒼白く、ものすごく照し出した。
 三十秒……五十秒……あと一分……。けれども影のような女は顔を上げなかった。影のようなゴンクール氏も動かなかった……粛殺《しゅくさつ》……又粛殺……。
 やがて女は静かに顔を上げた。卓子《テーブル》の上の洋盃《コップ》をじっと見た。そうしてやおら手に取り上げて眼の高さに差し上げてもう一度じっと透かして見た。
 紅《あか》い液体が、室内の凡ての光りと、その陰影を吸い寄せて、美しく燦爛《きらきら》とゆらめいた。

 今や室内のありとあらゆる物の価値は、女の手に高く捧げられた真紅の透明な液体に奪われてしまった。時計の価格。裸体画の魅力。髑髏の凄味。机の上に並んだ書物の権威。そうして、その中に相対する男女の肉体、血、骨、霊魂……そんなものまでも今は夢のように軽く、幻のように淡く、何等の価値もない玩具同然に見えてしまった。唯、白い指に捧げられた美しい液体……真紅の毒薬……。すべてのものはその周囲に立ち並んで、自分自身の無力をそれぞれに証明しつつ、その毒薬の威厳を嘆美し、真紅の光明を礼讃するに過ぎないかのように見えた。
 ジリッ……と時計が鳴った。……最後の時が迫った。……軽い痙攣が男の横顔を蜥蜴《とかげ》のように掠めた。
 九時…………。
 ……私は見ていなかった。反射的に眼を閉じたから……ただ洋盃《コップ》が絨氈の上に落ちる音を聞いた。何物かに当ってピンと割れる響を聞いた。さらさらという絹摺れの音を耳にした。そうしてその瞬間に吾れにもあらず眼を開いた時に、女は丸|卓子《テーブル》から離れて弓のように仰《の》け反《ぞ》っていた。口の中の液体を吐き出すまいとするかのように空を仰いだ顔にハンカチを当てて、その上から両手でしっかりと押えていた。そのハンカチの下から軽い、微かな叫び声が断続して洩れ出した。しかしそれはほんの一秒か二秒の間であった。忽ちよろよろと後方《うしろ》によろめいた瞬間に頭髪の中から眼も眩むばかりのダイヤのスペクトル光が輝き出たが、それもほんの一刹那の事であった。
 ※[#「※」は「てへん+堂」、第4水準2−13−41、351−16]《どう》と肘掛椅子の中に沈み込んで、顔から両手を離すとそのままぐったりと横に崩れ傾いた。そのたった今|嚥《の》んだばかりの毒液に潤うた唇は、血のようにぶるぶるとふるえつつ、次第次第に傾いて行く漆黒の頭髪《かみげ》の蔭になって、見えなくなって行った。その頭髪《かみげ》の中から、たった一つ生き残った大きなダイヤがもう一度|燦然《さんぜん》と輝き現われて、おびただしい七色の屈折光を廻転させつつ、ぎらぎらと眼を射たが、それもやがてゆらゆらと傾いて行く髪毛の雲に隠れて、オーロラのように見えなくなってしまった。
 女は死んでしまった……。
 ……けれど時計はまだ、その閑静な音を打ち止んでいない。霧の中から洩れ出す教会の鐘の音《ね》をさながらに、悠々と……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……最後のカラ――ンという一つは室《へや》の中の小宇宙を幾度もめぐりめぐって、目に見えぬ音《ね》の渦を立てながら、次第次第に、はるかにはるかに、遂に聞えなくなってしまった。
 それと同時に室《へや》の一隅から、不可思議な怪しむべき幻影が、足音もとどろに室《へや》の中央《まんなか》によろめき出た。その乱れ立つ黄色の頭髪……水色にたるんだ顔色……桃色に見える白眼……緋色に変った瞳……引き歪められた筋肉……がっくりと大きく開いた白い唇……だらりと垂れた白い舌……ゆらゆらとわななく身体《からだ》……その丸|卓子《テーブル》の上に両手で倚りかかって、女の方を屹《きっ》と覗き込んだ姿……それは最早《もはや》人間でもなく、鬼でもなく、又幽霊でもない。
 それは眼に見えぬ暴風に吹きまくられる木《こ》の葉のような魂であった。恐怖の海に飜弄される泡沫《ほうまつ》のような霊であった。自分がどこに居るか。何をしているか。そんな事は全く知らない空虚の生命であった。その生命がこの世に認め得たものは唯「女の死」という一事だけであった。これを確《しか》と見届けた。そうして机に凍り付いたようにぴったりと動
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