の世にありとあらゆる威嚇の中《うち》でも唯一無上の「死の威嚇」が、この女に限っては何等の効力も示し得ない事を覚ったのである。眼の前に立っている美しい幻影が、恰《あたか》も影法師か何ぞのように生命の価値を知らぬ存在である事を知ったのである。
ゴンクール氏の意識から見ると「死」は凡《すべ》ての最後であった。しかし女にとっては「死」が仕事の出発点であった。ゴンクール氏の仕事は生きた人間の世界で価値をあらわす仕事であった。これに反して女の仕事は死んだ人間にとってのみ価値あるものであった。死んで行く人……もしくは死んだ人のために死を覚悟して……言葉を換えて云えば死の世界から死の仕事をしに来ているのであった。それはゴンクールが生れて初めて聞いた仕事であった。実際に見た事のない異国人の愛国心であった。事実にあり得ないと考えていた白熱愛のあらわれであった。かくして以前《もと》のロッキー山下の禿鷲《コンドル》。殺人請負《ガンマン》の大親分《ボス》。今の米国の暗黒境王《ギャングスター》。ウオール街の暗黒公使《ダーク・ミニスター》、J・I・Cの団長ウルスター・ゴンクール氏は、この女が顔を見合わせた最初から、自分と全然違った世界に居た者である事を拳銃《ピストル》を突き付けてみた後《のち》にやっと気付いたのであった。
その世界……女の居る世界は、氏がまだ見た事も聞いた事も……想像した事すらない……この世のあらゆるものの権威……あらゆるものの価値を認めぬ……すべての光明……すべての感情を認めぬ、静かな、淋しい、涯てもない暗黒の世界であった。この無名の女の姿はその中から自分を脅かし、自分の旧悪を責めるために現われた一つの美しい幻影に過ぎなかった。
氏は驚き、恐れ、眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、330−15]《みは》り、口を開いて喘《あえ》いだ。頬や首すじを粟立たせ、五体をわななかせて震え上った。
けれども女の声は、闇黒の底を流れて、人の心を誘う水のように、どこまでも冷たく、清らかに続いて行った。
「……けれどもゴンクール様……。嬢次様のお怨みは、それだけではなかったのでございます。貴方がたを日本の警視庁の手で片付けて頂いた位では嬢次様の御無念は晴れなかったのでございます。
……貴方は二年前に志村様がお亡くなりになった時の事を御記憶になっているでございましょう。その時の志村浩太郎氏のお心持ちが、貴方におわかりになりますか。貴方のために欺されて、楽しい家庭をバラバラにされた上に、J・I・Cの中に捲き込まれて、とうとう責め殺されておしまいになった、その志村浩太郎様の残念なお心持ちが、貴方におわかりになりますか。
……志村様はJ・I・Cの秘密……貴方の秘密をすっかり発《あば》いて、その秘密を微塵に打ち砕いて、奥様や、お子様の生命を貴方の手から救い出して頂きたいために、警視庁の狭山様の宛名にして遺言を書いていられたのでございますよ。嬢次様は日本に来られてその手紙を手に入れてから初めて凡ての事が、おわかりになって、いよいよ曲馬団を逃げ出す覚悟をなすったのでございますよ。
……貴方は仕合わせなお方です。その遺言が宛名のお方の手に渡らずに、嬢次様のお手に這入りましたばっかりに、貴方は御運がよければお助かりになる機会があるかも知れない事になったのでございます。
……その代り貴方は、世界中のどこへお出でになりましても志村浩太郎様の思い残されたお怨みだけはお受けにならなければなりませぬ。嬢次様が私に頼んでおいでになった貴方に対する復讐だけはお受けにならなければなりませぬ。
……その復讐と申しますのは貴方が日本にお出でになった目的が何もかもすっかり駄目になった事を、お知らせする事でございます。貴方が生命《いのち》をかけて愛しておられました志村のぶ子様が、貴方の宝物のようにしておられました呉井嬢次様と一緒に天国へお旅立ちになりました事……それから、まだ御存じない事と思いますが、あなたのお留守中に曲馬団の重立った人々が一人残らず警視庁の手で縛られてしまいました事……それから、これは尚更のこと御存じないと思いますが、露西亜のウラジミル大公のお孫さんでおいでになるカルロ・ナイン嬢が、そのお守役の日本人で、ハドルスキーと名乗っていた樫尾という陸軍大尉と一緒にもうすこし前M男爵のお邸《やしき》に引き取られて、近いうちにセミヨノフ軍の参謀の方とお会いになる手筈がきまっておりますこと……。
……最前貴方がお出でになりますと間もなくかかって参りました電話は、志村のぶ子様から私にこの事を知らせて参りましたものでございます。又、今すこし前貴方から帝国ホテルにおかけになりました時に、すぐにハドルスキーの樫尾様が出て見えましたのは、樫尾様が貴方をお欺しして油断をさせるために、帝国ホテルで待ち構えておいでになったのでしょうと存じます。
……帝国ホテルにはJ・I・Cの人はもう一人も居ない筈でございますから……。
……その証拠はここにあるこの号外でございます。この号外はもう一時間半ばかり前、貴方がこの家にお着きになる前に配って来たものですから、東京市中には残らず行き渡っているでございましょう。貴方は今日の三時過ぎからお忙しかったために、この号外をまだ御覧にならなかったのでしょう。貴方にこの号外を通知する人が、一人残らず警視庁に挙げられたせいでもございましょうけど……」
女の言葉はいよいよ出でて、いよいよ励《はげ》しくなって行った。窓の外で聞いている私でさえも真偽の程を疑わずにはいられない事実……眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、333−5]《みは》り、息を喘《はず》ませずにはいられない恐ろしい大変事を、平気ですらすらと述べて行く……その物凄い光景に肌を粟立たせずにはいられない位であった。
況《ま》してゴンクール氏は全力を尽して女の言葉を遮ろうとしているように見えた。白い銃口を上下にわななかせながら、眼を固く閉じて女の姿を見まいとした。歯をギリギリと噛み締めて女の声を聞くまいとした。両手の拳を砕けよと握り締めて、一発の下に女の息の根を止めようと努力し又、努力した。最後には両脚を棒のように踏み締めて死にかかった獅子のようにぶるぶると身をもだえた。けれどもどうしてもその弾倉撥条《バネ》を握り締める力が出ないらしかった。
その間に懐中から取り出した一枚の四半頁大の号外の折り目を丁寧に拡げ終った女は、もう一度眼の前にわななく銃口を見ながら、ひややかに笑った。
「……ホホホホホホホ。ゴンクール様。貴方はどうしてもその引き金をお引きになる力がおありにならないのですね。
……御尤でございます。
……そのわけは、よく存じております。
貴方はまだ日本の法律に触れておいでになりません。日本人にとって一番憎らしいお方でありながら、日本の法律ではまだ貴方を罰する事が出来ません。けれども万一|妾《わたし》をお撃ちになったらその時から貴方は罪人におなりになるのですからね……。私は貴方にそうして頂きたいために、この室《へや》でお待ちしていたのです。貴方の仲よしの××大使様でも、指一本おさしになる事が出来ないようにして貴方を警察の手にお渡ししたいために、生命《いのち》がけでお待ちしておりましたのです。嬢次様の讐討《あだう》ちのために……。そうして嬢次様御一家の限りもない愛国心のために……。
……貴方はそうした妾の心がおわかりになったのでございましょう。
……日本で罪をお作りになりますと、亜米利加のように自由自在にお逃げになる事が出来ないのでございますからね。たとい貴方が妾をお撃ちになって、その拳銃《レボルバ》にわたくしの指紋を附けて、足跡を消しておいでになったとしても、間もなく狭山様がお帰りになって、その銃口の磨《す》れた、新しい拳銃《レボルバ》を御覧になれば、すぐに貴方だという事をお察しになって、貴方のお靴の踵《かかと》が、まだ日本の土を離れないうちにお捕えになる事が解り切っておりますからね。狭山様のお眼には世界中が硝子《ガラス》のように透きとおって見えているのですからね。
……万に一つ……それでも貴方が狭山様に見逃しておもらいになるような事がありましても、死んだ妾達四人の怨みだけはお逃れになる事が出来ないのでございますよ。貴方は今日妾が申し上げた事を死ぬが死ぬまでお忘れになる事が出来ないのですよ。……日本人には死後の執念がある……という事を……。日本人に悪い事をなさると、生き代り死に代り、何人でも何人でも生命《いのち》がけで怨みに来る……ということを……。
……貴方はこれから毎日、生きながら、死刑と同様の苦しみをお受けにならなければなりませぬ。
……眼に見えぬ嬢次様の手に頭髪を掴まれ、眼に見えぬ志村御夫婦の怨みの縄に咽喉《のど》を締められておいでにならなければなりませぬ。
……貴方は、そんなものがこの世にないと思召《おぼしめ》しますか。お国の亜米利加にはありますまい。しかし日本にはございます。その証拠はわたくしでございます。わたくしは亡くなられた志村浩太郎様御夫婦の怨みを貴方に御伝えするお使いの女です。
……わたくしは生きて甲斐《かい》のない身体《からだ》でございます。もう死んでいるのも同然の女でございます。ただ嬢次様の怨みを晴らすために生きているのです。ただこの号外を貴方に読んでお聞かせして、日本民族のためにならぬ貴方の御計画が、二年前にお亡くなりになった志村浩太郎様のお望みの通りにすっかり駄目になった事をお知らせするために生き残っているのでございます」
……この幻影……美しい女の姿……暗い静かな声は、次第次第にゴンクール氏の魂を包んで行った。「死んだ者の怨みの声」を聞き「眼に見えぬ執念の手」に触れられるこの世の外《ほか》の世界へ、一歩一歩引き込んで行く。
抵抗しようにも相手のない「この世の外《ほか》の力」……その力はゴンクール氏の魂をしっかりと握り締めて、次第次第に死の世界へと引っぱり寄せて行く。
手を押えられたのならば振り放す事が出来る。足を捉えられたのならば蹴飛ばす事が出来る。牢に入れられたのならば破ることが出来る、けれども魂を捕えられた者は逃げようがない。仮令《たとえ》宇宙の外に逃げる事が出来ても魂が自分のものである以上、捕えた手はどこまでも随《つ》いてくる。しかもその魂を捉えている手は影法師と同様の力のない手である。……ゴンクール氏の魂は唯、空《くう》に藻掻《もが》くばかりであった。
涯てしもない恐怖によって絞り出された、生命そのものの冷たい汗に濡れた氏の顔面は、蒼白い燐火のような光りを反映し、その赤味がかった髪の毛は、囚われた霊魂の必死の煩悶と苦悩のために一|呼吸毎《いきごと》に白く枯れて行くかと思われた。それでも氏はなおも最後の無我夢中の力を振り絞って、無理に眼を見開いて相手の女を見ようとした。疲れ切ってひくひくと引き釣る腕を引き上げて女を狙おうとした。自分を呪うべく突立っている眼の前の美しい幻影に向って、死物狂いの一発を発射しよう発射しようと努力した。
けれどもその力も全く尽きる時が来た。
氏の全身に残っている生命《いのち》は一努力|毎《ごと》に弱くなり、一|喘《あえ》ぎ毎《ごと》に稀薄《うす》くなって行った。恰《あたか》も室内に籠っている煙がいつの間にか消え失せてしまうように、殆んどあるかないか判らぬ位になってしまった。ぐったりと垂れ下った手の指から拳銃《ピストル》は、おのずと抜け落ちて、床の上に音を立てた。その肩は落ち、腰は砕けて、よろよろとよろめいて室《へや》の隅にたおれかかって、斜にずるずると半分ばかり傾いて、頭をがっくりとうなだれると、支那産の絨毯の上に手と足を投げ出したまま、森閑と動かなくなった。その顔面の筋肉は蝋のように垂れ下って、力なく伏せた瞼の下の青い眼はどこを見ているのかわからぬように、どんよりと白茶気てしまった。死の影は全くゴンクール氏を蔽うてしまった。氏の全身は死相を現じて来た
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