夕方にきっと貴方がここへお出でになるに違いないと云われました」
 ストーン氏は女の言葉の意味を考えるように、暫く沈黙していたが、やがて静かに声を落して云った。
「その通りです」
 女もストーン氏の真似をするように、何か考えているらしかったが、やがて独言《ひとりごと》のように言葉をつづけた。
「……ですけども夕方から横浜からお出でになるのですから六時か七時頃になるでしょう。ですから九時まで四時間の時間を取っておけば大丈夫と嬢次様は云われました」
「その四時間は何をなさるためです」
「貴方を欺すためです」
「え……何ですか……」
「貴方をお欺し申すのでございます。妾《わたくし》はこうして米国暗黒公使《メリケン・ダーク・ミニスター》、J・I・Cの団長ウルスター・ゴンクール氏をお欺し申しました」

 ……表情が粉砕された……と形容すべきはこの時のウルスター・ゴンクール氏であろう。眼の前に火薬庫が破裂したかのように、思わず両手を顔に当てて丸|卓子《テーブル》の前に仰《の》け反《ぞ》った。眼にも止まらぬ早さで椅子を蹴飛ばして立ち上ると同時に、腰のポケットから真黒な拳銃《ピストル》を掴み出して、女の眉間《みけん》に狙いを附けながら距離を取るために二歩ばかり後に退《さが》った。……その素早かったこと……そうして、その態度の見事であったこと……最早《もう》こっちの物……という風に軽く唇を噛んだまま、眉一つ動かさず、最新式大型|拳銃《ピストル》の白光りする銃口を構えて毅然としている有様は、一個の拳銃《ピストル》と一挺の短刀《ダガー》とを以て我意の法律を貫徹して行く、野性亜米利加人そのままの気魄を遺憾なく発揮したものであった。
 しかしこれに相対した女の態度も亦、たしかに歎美に値した。
 女は、いつの間にか椅子を離れて、恰《あたか》も相手の狙いを正しくしてやるように、電燈の側近く立っていた。そうして両手の指をしなやかに組んで観念した心を見せている。その影法師は大きく室《へや》の半分を区切っていて、ゴンクール氏の姿は、その中から浮き出したように見える。
 ややあって軽いけれども底力のある英語がゴンクール氏の唇を洩れた。
「名を云え《ユアネーム》[#「名を云え」のルビ]」
「……………」
 女は答えなかった。ただ徐《しず》かに眼を上げて、鼻の先に静止している銃口越しにゴンクール氏の顔を見た。
 ゴンクール氏の顔は見る見る緊張した。その皮膚は素焼の陶器のように、全く光沢《ひかり》を失って、物凄い、冷たい眼の光りばかりがハタハタと女を射た……。
 何秒か……何世紀か……殆んど人間の力には堪えられぬ程の恐ろしい沈黙が、空しく室《へや》の中を流れて行った。
 それは崇高な静寂……息苦しい空虚であった。……間一髪を容れぬ生死の境がじりじりと、涯てしもなく継続して行く……手に汗を握る……死んだ画面であった。
 その中に唯独り正面の時計の振り子は、硝子《ガラス》の鉢に水銀の波を湛えて、黄金の神殿の床を緩やかに廻《めぐ》って行き、又、ゆるやかに廻りかえって来た。そうして、やがて場面とおよそ調和しない閑静な響を唯一つ打った。
 ……八時十五分……。
 女は突然に身を反《そ》らして高らかに笑い出した。
「ホホホホホホ。ヒヒヒハハハホホホホホホホホホホホ……」
 その甲走《かんばし》ったヒステリカルな声は、絶え間なく、次から次へ響き渡って、室《へや》の中に充ち満ちし電燈の光りを波のように打ち震わしているかのように思われた。……但し……その声は明かに作り笑いとしか聞えなかった。けれども、それが作り笑いであるだけ、それだけ一層冷やかに物凄く感ぜられた。
 ゴンクール氏の眥《まなじり》はきりきりと釣り上った。女の笑い声の一震動|毎《ごと》にビクビクと動いた。髪の毛は逆立ち、唇を深く噛み締めて、拳銃《ピストル》の柄を砕くる許《ばか》りに握り締めつつじりじりと後退《あとじさ》りをした。その顔面の皮膚の下から見る見る現われて来た兇猛な青筋……残忍な感情を引き釣らせる筋肉……それは宛然《えんぜん》たる悪魔の相好であった。
 神も恐れぬ。人も恐れぬ。法律も道徳も、人情も……血も涙も知らぬ。唯死を恐れぬ者のみを恐るる悪魔の表情であった。悪魔が頼みにしている最後の威嚇手段……死の宣告……に対して平然としているのみならず、これを軽蔑し、これを嘲り笑っている驚くべき霊魂に対して、必死の勇気を絞り集めつつ対抗しようと焦躁《あせ》っている魔神の姿であった。
 女はやがてピタリと笑い止んだ。よろよろとよろけて机に後手を突いて、自分の眉間に正対して震えている白い銃口を見、又、ゴンクール氏の顔を見た。悲し気な笑《えみ》を片頬に浮かめた。そうして淋しい訴えるような口調で物を云い初めたが……その言葉は思いもかけぬ流麗な英語であった。さながらに名歌手の唇と情緒を思わせるような……。
「お撃ちなさい……撃って下さい……ゴンクール様。妾《わたし》はもうこの世に望みのない身体《からだ》でございます。妾の一生涯はもう過ぎ去ってしまっているのでございます。……ですからもう何もかも本当の事を申上げてしまいます。そうして貴方の御勝手になすって頂きます。
 ……最前からわたくしが申しました事は、みんな真実でございます。……けれども……その中《うち》にたった一つ嘘がございました。それは妾が狭山の姪という事でございます。妾は狭山様と縁もゆかりもない者でございます。
 ……妾が狭山様のお宅に伺いましたのは今日が初めてでございました。それまではただお顔とお名前を新聞で存じておりましただけでございました。
 ……わたくしたち三人……志村のぶ子様と、呉井嬢次様と、わたくしとの三人は、狭山様のお手を借りないで、あなた方に復讐をするために、わざと狭山様のお家を拝借したのでございます。そうして貴方以外の方々への復讐は完全にもう遂げられているのでございます。その事を貴方がお気付きにならないように貴方をここへ引き止める役目を妾が受持ちまして、ここにお待ちしていたのでございます。
 ……お二人は、ですから最早《もう》安心して天国へお出でになった事と思います。貴方がここへお出でになる事を警視庁に知らせて、警視庁のお手配りがすっかりこの家のまわりを取り巻くまで、妾が生命《いのち》がけで貴方をお引き止めしている事を、お二人とも固く信じて、妾があとから参りますのをあの世で待っていて下さる事と思います。
 ……志村様|母子《おやこ》に、そんな怨みを受ける覚えがないとは申させませんよ。わたくしは何もかも存じておりますよ。嬢次様は日本にお着きになりますと間もなく、お父様の志村浩太郎様が或る弁護士に預けておかれた遺言書を受取っておいでになるのですよ。貴方が志村様一家に、どのような非道《ひど》い迫害をお加えになったかを詳しく書いてあります。長い長い狭山様宛てのお手紙を……。自分の死後の敵ウルスター・ゴンクールを是非とも斃《たお》して下さい……という文面を……。
 ……ゴンクール様……貴方は何故わたくしをお撃ちにならないのですか。わたくしは貴方の秘密をすっかり存じているのでございますよ。只今帝国ホテルにおかけになった貴方のお電話の意味も一つ残らず記憶《おぼ》えているのでございますよ。私は貴方に殺される覚悟で貴方をお欺し申したのですよ。今の中《うち》ならまだ警視庁の手がまわっていないかも知れないではございませんか。貴方は今日横浜にお出でになって、メキシコ石油商会の競走用モーターボートをお買求めになって芝浦にお廻しになるのと一緒に、横浜を今夜の十時までに出帆する亜米利加《アメリカ》と加奈陀《カナダ》と智利《チリー》通いの船の名前をすっかり調べておいでになるではございませぬか。それは万一嬢次様が曲馬団の内情を警視庁にお訴えになった時に自分一人で外国にお逃げになる御用心のためではございませぬか。今ならまだ、お間に合うかも知れないではございませんか。
 ……わたくしは死ぬのはちっとも怖ろしくはございませぬ。妾は嬢次様にお別れした時から死んでいるのですもの……。御覧なさい。この絨毯《じゅうたん》は狭山様のお宅の床が、妾の血で穢《けがさ》れないように敷いたのです。壁紙も、窓かけも、何もかも妾の死に場所を綺麗《きれい》にしたいために新しく飾り付けたのです。
 ……こう申しましたら貴方はあの時計と髑髏《どくろ》が、何のために飾り付けてあるかという事が、おわかりになるでしょう。この二つのものは、わたくしが死を覚悟致しておりました事を、あとで狭山様におしらせするために飾り付けたのです。
 ……さ……お撃ちなさい。貴方のお手にはその撃鉄《ひきがね》を引くお力がないのですか。貴方のお心の力は、そのバネの力よりもお弱いのですか。貴方は今まで、何でもない事で、度々そんな事をなすった事がおありになるではございませぬか」
 女の声は、その態度と共に益々冷やかに落ち着いて来た。これに反してその言葉は一句|毎《ごと》に烈しい意味を含んで来た。その一語一語は悉《ことごと》く一発の尖弾……死に値するものであった。
 しかしその言葉が進むに連れて……否……女の言葉が烈しくなればなる程、室《へや》の中に充ち満ちていた殺気――間一髪を容れぬ危機は次第に遠退《とおの》いて行った。そうして女の冷やかな言葉の切れ目切れ目|毎《ごと》に、この世のものとも思われぬ深刻な淋しさが次第次第に深くなって来た。
「……貴方は、どうしても妾をお撃ちになりませぬね。……それではもっとお話し致しましょう。
 ……ゴンクール様……貴方は、わたくしが只、愛に溺れたために、嬢次様に欺されてこのような事をしていると思っておいでになるでしょう。私の生命《いのち》はただ嬢次様にだけ捧げているものと、お思いになっているでしょう。
 ……ですけど……お気の毒ですけど、それは違います。それは大変な貴方のお考え違いです。わたくしの生命《いのち》は、嬢次様を通じてもっともっと大きな事のために捧げているのでございます。わたくしから進んでその仕事をお引き受けした位でございます。
 ……その仕事とは何でございましょうか。
 ……日本のためにならぬJ・I・Cの秘密結社を打ち壊す事でございます。この仕事は、亜米利加を怖がっている日本政府のお役人たちには出来そうにない仕事です。又、他人の狭山様に後で迷惑がかかるような事になっても困るから自分一人で片付けるつもりだと嬢次様は云っておられましたが、わたくしは無理にお願いして、その中《うち》でも一番おしまいの仕事を受け持たして頂いたのでございます。それは妾のように、まだ貴方にお眼にかかった事のない、若い女でなければ出来にくい仕事でございましたから……。
 ……その仕事とは何でございましょうか……。
 ……貴方を殺す事です。……世界中で一番浅ましい人間を集めて、世界中で一番憎らしい仕事をする者を亡ぼして終《しま》うことです。表面《うわべ》に正義とか人類のためとか云って、蔭では獣《けもの》や悪魔の真似をするウルスター・ゴンクールを生きながら殺して終《しま》うことでございます」
 見よ……見よ……見よ……。
 指が白くなる程固く握り詰めているウルスター・ゴンクール氏の拳《こぶし》は、自然自然と紫色に変って、微かにふるえ出して来た。ゴンクール氏は、それを尚も力を籠めて握り締めようとした。けれどもその拳も指先も最早《もう》すっかり痺れたらしく、次第に垂れ下って床に近付いて来る。
 その代りに呼吸は眼に見えて荒くなって来た。その胸と肩は大波を打ち、その膝頭はわなわなと戦《おのの》き出した。憤怒の形相《ぎょうそう》は次第に恐怖の表情に変って、頬や顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、329−12]《こめかみ》の筋肉はヒクヒクと引き釣り、その眼と口は大きく開いて凩《こがらし》のような音を立てて喘《あえ》ぎに喘いだ。
 ゴンクール氏は今や正《まさ》しく、その鉄をも貫く連発の銃弾が、何の役にも立たない事を知ったのである。こ
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