ミセス・シムラは何という名前になっておりますか」
「……アスタ・セガンチニ……一番初めのプログラムに出ておいでになります。地図を読む馬の先生……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッハッ」
 ストーン氏は又も堪らなく噴き出した。今度こそはとてもたまらないという風に、大きな腹を両手で押えて、文字通りに腹を抱えながら右に左に傾き笑った。
「ワハハハハハハハハハハ……お伽話《フェヤリー・ストーリース》[#「お伽話」のルビ]だ……地底の蜃気楼《ミラージ・イン・ザ・アース》[#「地底の蜃気楼」のルビ]……アッハッハッフッフッフッ……アスタ・セガンチニ……あの近眼婆さん……オースタリ人の志村のぶ子……アハハハハ。馬の先生……ウハハハ……」
 けれども今度の笑いはそう長く続かなかった。ストーン氏はそうやって笑っているうちに、女の欺され方があんまり非道《ひど》いのに気付いたらしく、急に顔を撫でまわして、真面目な態度に立ち帰りながら問うた。ともすれば又も擽《くす》ぐられそうになる気持ちを肩で呼吸《いき》をして押え付けながら……。
「……ホ――オ……しかし……お嬢さん……。あのシムラ・ノブコは髪の毛が赤くて縮れていたでしょ。ははは……」
「あれは嬢次様がお母さまにお教えになったのでございます。日本人の髪は毎日オキシフルで洗っておりますとあのように赤黄色くなるそうでございます。眉毛も睫毛《まつげ》も……」
「ははは……。しかしあんなに高い鼻があったでしょう」
「隆鼻術をされたのでございます。よく似合っておられます」
「……なるほど……それでもあの頬の骨の形は日本人と違いますでしょ」
「口の内側からお削りになったのだそうです」
「……あはははあ……痛かったでしょう。……それではあんなに色が白いのは牛乳のように……」
「仏蘭西《フランス》の砒素《ひそ》鉄剤を召していらっしゃるのです」
「ヒソテツ?」
「色の白くなるお薬です」
「あはは……あのお洒落《しゃれ》婆さん……あはは……あなたは本当に欺されていらっしゃいます」
「欺されてはおりません」
「……あはは……欺されておられるのです」
「嬢次様は人を欺すような方ではございません」
「OH……NO・NO・NO……貴女《あなた》よくお聞きなさい……ジョージは貴女を棄てて行ったのです。ほかに女の人が居るのです」
 女は一寸唇を噛んで鼻白んだ。しかし間もなくニッコリと笑った。ストーン氏のひょうきんな微苦笑とコントラストを作る淋しい、悲しい笑いであった。
「そうでございません。嬢次様も、お母様も、今日になって急に自殺されなければならぬような大変な事が出来たのです。それで後の事を私にお頼みになって、死に場所を探しにお出でになったのです」
「その大変な事どんな事です」
「志村ノブ子様は日本に居られました時に、叔父に捕まえられなければならぬような悪い事を、知らないでなすったそうでございます。その云い訳が出来なくなりましたので米国へ逃げてお帰りになったのです……ですから今でも叔父に見付かったら大変な眼にお会いになるのです」
「ミスタ・サヤマが正しいのです」
「それから嬢次様も、あなたの曲馬団に悪い事をされたのでございますから叔父に捕まえられてはいけないのです。それから、わたくしも叔父に隠し事をしているのでございますから、私たちが死んで申訳を致しませぬ限り叔父は決して許しますまい」
「ミスタ・サヤマはいつも正しいのです」
「それに叔父が今日曲馬団に来ておりまして、あのように妾《わたし》たちの仕事を察して、粗相《そそう》のないように保護しているのを見ますと、叔父はもう、とっくに何もかも見破って、わたくし達三人を一緒に捕まえようとしているのに違いないのでございます」
「ミスタ・サヤマはもう二人を捕まえているでしょう」
「……そうかも知れませぬ。けれどもその前にお二人は自殺していられるでしょう」
「何故ですか」
「叔父の狭山が二人を捕まえましたならば、とりあえず貴方の手に引渡すでしょう」
「……それが正しいのです」
「そうしたらお二人は、貴方のトランクの中に在る、鉛の球《たま》を繋いだ皮革《かわ》の鞭で打ち殺されてしまわれるでしょう」
「……そ……そんな……あははは……それはみんな嬢次の作り事です。貴女《あなた》を欺して、ここに棄てて行くために嘘を云ったのです」
「……………」
 女は涙ぐんだらしくうなだれた。ストーン氏は得たりとばかり身を乗り出した。
「……ははは……わかりましたか。欺されている事……」
「……………」
「ジョージはマダム・セガンチニと夫婦になるために逃げたのです。……あははは……帰って調べて見ればわかります。それに違いありませぬ」
「……………」
「……あははは……何もかもノンセンスです。……わかりますか……ノンセンス……欺されている事……」
 女はうなだれたまま唇をわななかした。蚊《か》の泣くような細い声で云った。
「……欺されても構いませぬ。嬢次様のおためなら……」
「……そ……そんな……ノンセンス……」
 とストーン氏は急に真剣になって片手をあげた。
「……貴女《あなた》は大変な損をします……貴女はたった一人ここに居りますか……たった一人約束守って……」
「……守ります……死ぬまで守ります」
 と云ううちに長い袖をかい探って顔に当てた。
 ストーン氏は憮然として椅子に反《そ》りかえりつつ長大息した。
 窓の外で私も人知れず長大息させられた。

 この女は最前からかなりの嘘言《うそ》を吐いている。けれどもその嘘言《うそ》は皆、真実を材料《たね》にしたもので、ただ私がこの女の叔父であるという事と、馬に毒を嘗《な》めさせたのを少年の所為《せい》にしている事と、この二つのために全部が嘘に聞えているので、実は皆ありのままを述べているとしか考えられないのである。「真実ばかりの嘘」というものがもしあるとすれば、この女の今まで云った言葉は正にそれで、特に最後の思い詰まった哀傷の涙に至っては正に「真実中の真実」であろう。
 怪少年呉井嬢次の怪手腕が、これ程に凄いものがあろうとは流石《さすが》の私も今の今まで知らなかった。愈々《いよいよ》出でていよいよ奇怪とは真にこの事である。察するところ、彼は私に施したと同様の手段……その美貌……その明智……その真実らしい態度で、どこの者とも知れぬこの女を説き付けて、その仕事の手助けに使ったものと見える。彼の辣腕は一方にこの老骨狭山九郎太を手玉に取りながら、一方には花のような無垢《むく》の美少女を、傀儡《あやつり》のように自由自在に操っている。何という大胆さであろう。何という狡猾さであろう。あの大学生が……曲馬場で老人と馬の話をしてジョージ・クレイの技術を賞め千切《ちぎ》っていた……あれが本物のジョージ・クレイであったか。鼻を低くし、頬を痩せさせ、年齢を増して、声や背丈までも別人のように高くし得る変装術がこの世にあろうとは思われぬ。あの大学生が呉井嬢次ならば、今までの彼の身体《からだ》は消滅して、心だけがあの大学生に乗り移ったものと思うより他に考えようはないであろう。私は唖然たらざるを得なかった。
 しかしストーン氏はそんな事は知らない。唯この驚く程聡明で、呆れるほど無鉄砲で、手のつけられぬ程純情な、芸術家肌の美少女が、唯一筋の恋の糸に操られて、自分達に云い知れぬ大きな迫害を加えつつ、その当の相手の前に坐って、平気ですらすら事実を告白している事実を知っているだけであった。ストーン氏は最早《もう》、この女に何の罪もない事を悟ったらしい。そうして愛のために盲目になって、常識を失っているこの女に対して、却《かえ》って云い知れぬ憐れみの情を動かしたらしく、今までよりも亦、ずっと砕けた、親し気な風付《ふうつ》きに変った。そうして卓子《テーブル》に半身を凭《もた》せて、両手で手紙を弄びながら、更に女に向って言葉をかけた。その顔付きには今までの悪感情は影も形もなく、その音調にはヤンキー一流の平民的な、朗かな真情がみちみちていた。
「……お嬢さん。貴女《あなた》は大変賢い人です。大変に美しい心を持った人です。女神のような人です。貴女のような人初めて見ました。貴女のような人|亜米利加《アメリカ》に居りません。貴女のような恋する人は亜米利加に居りません。……けれども貴女は悪魔に欺されました。そうして私に悪い事しました。しかし私は憤《おこ》りません。貴女は知らないのですから。警察にも云いません。安心して下さい。
 私はジョージに棄てられた貴女お気の毒に思います。私は貴女を助けて上げたいと思います。私貴女の叔父様ミスタ・サヤマに話して亜米利加に連れて行ってあげる事出来ます。私の親友の米国大使にお世話させます。亜米利加第一の金持、政治家|皆《みな》私の友達です。皆貴女のお世話させます。亜米利加の美術世界一です。亜米利加の音楽世界一です。亜米利加の流行世界一です。活動写真《ムービー》、レヴュー、芝居皆世界一です。そんなもの皆貴女のものにして上げます。けれどもジョージの事忘れなければいけません。ジョージに欺された事口惜しいと思わなければいけません。ジョージとジョージの新しい女に讐敵《かたき》を打たなければ駄目です。私が手伝って上げます。
 あの悪少年《ラスカル》は恐ろしい毒蛇《コブラ》です。人を欺して血を吸います。あれは魔神《デビル》が化けた豹《ひょう》です。どこに居るかわかりません。けれどもどこからか出て来て悪い事をします。あの悪少年《ラスカル》は南部亜米利加《サウザンアメリカ》に来れば石油を掛けて焼かれます。そんなにジョージは悪い人です。貴女《あなた》を本当に愛しているのではありません。
 貴女は愛《ラブ》のためにジョージが入り用でした。けれどもジョージは悪い仕事をするために貴女が入り用だったのです。貴女を使ってミスタ・サヤマを困らせて、おしまいにミスタ・サヤマを欺して、遠い処へ逃げるために貴女を欺したのです。
 貴女は最早《もう》ジョージの事を忘れなければいけませぬ。ジョージより他に貴女を幸福にする者沢山居ります。わかりましたか……」
 ストーン氏の説教は子供を賺《すか》すように親切であった。その眼は人種の区別を忘れた友情に輝き、その口元は熱誠のために微かに震えて、自分の心持をどうしたら相手の胸の中に注《つ》ぎ込もうかと苦心しているようであった。
 すべて男がこうした態度を執る時……殊にストーン氏のような男らしい風采と、溢るるばかりの野性的な元気に充ち満ちた男性が、このような敬意と熱誠を示す時、相手の女性は最も甚だしく心を掻き乱され、引き付けられるものである。けれども彼女は何等の感動をも受けた模様はなかった。最初の通りの固くるしい姿勢に返って、膝の上のハンカチを凝視《みつめ》ているきりであった。
 この体《てい》を見ていたストーン氏は、やがて駄目だという風に椅子に背を凭《も》たして、残り惜しそうに女を見つつ、そっと眼を閉じて眉を寄せた。
 その時にストーン氏の背後にかかっている柱時計が余韻の深い幽玄な音を立てて、ゆっくりと時を報じ初めた……一ツ……二ツ……三ツ……四ツ……五ツ……六ツ……七ツ……。
 ……八ツの音を聞くとストーン氏は驚いたように眼を挙げて時計を見た。そうして少し慌てたように胴着から太い白金の懐中時計を出して見たが、落ち着いてそれを仕舞い込んで、最初の礼儀正しい紳士の態度に帰りつつ口を啓《ひら》いた。
「……お嬢様……私はもう帰らなければなりません。けれどもまだ一つ、貴女《あなた》にお尋ねしたい事があります」
「はい。何なりと……」
 女の返事は何だか男のように響いた程、明晰であった。屹《きっ》と顔を上げて相手を見た。ストーン氏はその顔をしげしげと見ていたが、やがて、事務的な……しかし極めて丁寧な口調で問うた。
「ジョージ……さんは貴女に、この室《へや》を飾るわけを話しませんでしたでしょか」
「はい。申しました」
「何のためにですか」
「嬢次様は今日の
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