れたら手も足も出ないようにされてしまう。こうなったからには最後の手段を執るよりほかに仕方がない……と……」
「最後の手段とは……」
「死ぬのを覚悟して仕事をする意味でございます」
「その仕事は何ですか」
「これから申します」
「お話しなさい」
「嬢次様は鞄《かばん》の中から、貴方と、カルロ・ナイン嬢と、御自分と三人一緒に撮った写真の絵葉書を五枚ほど出して、羅馬《ローマ》字でお手紙を書かれました」
「その手紙は貴女見ましたか」
「はい。叔父に四時間ばかり……九時頃までこの家《うち》に帰って来ないように頼んでありました」
「叔父様は、そんな事を本当にすると思いますか」
「はい。叔父は頭がどうかならない限り嬢次様のお言葉を本当にしてくれるだろうと思います」
「……どうしてそんな事わかりますか」
「今日曲馬場で、嬢次様の行方を探すために懸賞の広告が出ました。あれは貴方《あなた》がお出させになったのでございましょう」
「そうです。わたくしです」
「その中に嬢次様のお写真の事は一つも書いてございませんでした」
「その代りに、表の絵看板を見るように描《か》いておきました」
「本当の嬢次様が、あの絵看板の長い顔に肖《に》ておられると、誰が思いましょう。貴方は嬢次様の写真を一枚もお持ちにならなかったと思うよりほかに仕方がございますまい。実際嬢次様は、曲馬団をお逃げになる前から、御自分の写真を一枚も残らず集めて、あの絵葉書と一緒に黒い鞄の中に人知れず隠して、アムステルダムの秘密錠をかけておかれました。貴方は、それをお察しになりまして、嬢次様が逃げ出す準備をしておらるる事をお覚《さと》りになりましたから、とりあえず鞄ごと、曲馬場の荷物の中に取り隠しておいでになったのです。ですから今となってはあの絵葉書の一枚は貴方にとって千円にも万円にも代えられない大切なものでございましょう。警察にお渡しになる嬢次様の人相書のたった一つの材料でございましょう。嬢次様をお捕えになるたった一つの手がかりでございましょう。貴方が警視庁で志免様にお会いになりました時にも、志免様から写真のお話が出て、大層お困りになった事でございましょう」
「……………」
「そのような詳しい事は存じませずとも、叔父は嬢次様のお写真が、貴方のお手に一枚もない事を最早《もう》とっくに察している筈でございます。その大切な絵葉書を五枚も叔父の手に渡すという事は嬢次様にとっては生命《いのち》を渡すのと同様でございます。それ位の事がわからなくて、どうして警視庁の捜査課長が勤まりましょう。又、これ程までにして頼まれました事を否《いや》と云うような無慈悲な叔父でない事は妾もよく存じておるのでございます」
ストーン氏は心持ち肩をすぼめたまま、そう云う女の顔を凝視していた。いつとなく雄弁になって来る女の鋭い理詰めと、その理詰めを通じて判明《わか》って来る女の頭のよさに呆れ返っているらしい。しかし間もなく咳払いを一つして、七時三十五分を指している背後の時計を振り返ると、元の通りの寛《くつろ》いだ態度に返ったのは……高《たか》の知れた女一匹……という気になったものであろうか。それとも私がまだ暫くは帰って来ないという女の言葉を信じて、安心をしたせいでもあろうか。
「それからその手紙を、どうしてミスタ・クロダ・サヤマに渡しましたか」
「叔父はそれから曲馬場をまわって、東京駅ホテルの前に行って、二階の窓の一つを見ながら突立っておりました」
「……それは何故ですか」
「何故だか解りませぬ」
「何分位居りましたか」
「五分ばかり」
「そしてどこへ行きましたか」
「それから駅前の自動車の間をゆっくりゆっくり歩いて、高架線のガードの横を東京府庁の前に出まして、鍛冶橋を渡って、電車の線路伝いに弥左衛門町に這入って、カフェー・ユートピアの前に立って、赤い煉瓦の敷石を長いこと見つめておりました」
「それは何故ですか」
「何故でございましたか……何だかふらふら致しておるようでございましたが、そのうちに二階に上って行きましたから、妾《わたし》共二人もあとから上って参りました」
「えっ……二人で……」
「はい……」
「見付かりませんでしたか」
「いいえ。叔父は西側の窓に近い卓子《テーブル》の前に坐って何かしら眼を閉じて考え込んでいるようでしたから、妾たちはその隣の室《へや》の衝立《ついた》ての蔭に坐って様子を見ておりますと叔父も何かしら二皿か三皿|誂《あつら》えて、妾たちの居ります室《へや》のストーブのマントルピースの上をじっと凝視《みつめ》ておりました」
「その時にも見付けられませんでしたか」
「何か考え事に夢中になっている様子で、室《へや》の中に誰が居るか気が付かぬ風付《ふうつ》きでございました。そうしてぼんやりとした当てなし眼をしながらぶつぶつ独言《ひとりごと》を云っておりました」
「どんな事を……」
「どんな事だか聞き取れませんでした。けれども間もなく大きな声で……ジョージ・クレイ待てっ……と申しましたので吃驚《びっくり》致しまして、二人とも衝立の蔭に小さくなりましたが、そのうちに気が付いて衝立の彫刻の穴からそっと覗いて見ますと、叔父はいつの間にか食事を済まして、うとうと居ねむりをしておりました。そうして間もなく……聖書……燐寸《マッチ》燐寸……ムニャムニャムニャ……と云って首をコックリと前に垂らしました。見ていたボーイが皆笑いました」
「その時に新聞を渡しましたか」
「いいえ。わたくし達は叔父が睡りこけたのを見澄まして表へ出ますと、ちょうど通り蒐《かか》った相乗俥《あいのりぐるま》がありましたからそれに乗って幌をすっかり下して、その中から二階のボーイさんを呼び出してもらって、今から十分ほど経ったら二階の窓際に睡っているこんな姿の紳士に渡して下さいと頼みました」
「それからこちらへ帰って来たのですね」
「いいえ。それから色々と買物を致しました」
「お話しなさい」
「それから、わたくし達の相乗俥がほんの一二間ばかり新橋の方へ駈け出しますと、間もなく左側に貸自動車屋を見付けましたので、大喜びで俥を降りて車夫に一円遣りまして、そこの新しいフォードに乗りかえて日本橋の尾張屋という壁紙屋へ行って壁紙と糊を買いまして、三越へ行って絨毯や、電燈の笠や、椅子のカヴァーや時計を求めて食事を致しました。それから伝馬町の岩代屋という医療器械屋へ行って標本の骸骨を買いますと、そのまま真直ぐに自動車でこの家まで参りましたが、道が入り組んでおります上に狭いので大層時間がかかりました。それでも大急ぎで仕事を致しましたので、一時間半ばかりのうちに、やっとこの室《へや》を飾り付けてしまいました」
「えっ……この室《へや》を……」
「……はい……」
女は何気ない答えをしつつ、今日曲馬場で私を見上げた時とそっくりの無邪気な表情をしてストーン氏を見上げた。
ストーン氏は真青になってしまった。……高の知れた女一匹……と思って調子をおろしていた相手から、思いもかけぬ不意打ちを喰ったのですっかり面喰《めんくら》ってしまったらしい。恰《あたか》も呉井嬢次が壁の向う側に立っているかのように、又は室《へや》中の道具が一つ一つに自分を取り巻く敵であるかのように、油断なく身を構えながら……時計……油絵……骸骨、電燈……と順々に見まわして行ったが、それにしてもまだ、腑に落ちない事が余りに多いので、半信半疑の心理状態に陥ったものであろう。次第に血色を回復しながらも不安そうに女を見下した。威嚇するように重々しく口を啓《ひら》いた。
「……それでは……この家はミスタ・サヤマの家《うち》ではないのですか」
「……いいえ。叔父の家《うち》に間違いございませぬ」
「……ふむ。それでは……」
とストーン氏はもう一度ぐるりと室《へや》の中を見まわした。
「ジョージ・クレイはどこに居るのですか」
「今しがたお答え致しました」
「え……何と云いました」
「お忘れになりましたか。嬢次はお母様と一緒に天国に……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
とストーン氏は女の言葉を半分聞かぬうちに、突然、取って付けたように高らかに笑い出した。しかもそれは今の女の言葉に依って、何事か或る重大な疑問が解けたために、今までの不安と、緊張から一時に解放された事を証拠立てるところの、どん底までも朗かな、痛快な、ヤンキー式の感覚を投げ出した笑いであった。椅子に反《そ》り返って、両脚を投げ出して、ハンカチで顔を拭いて自分の前に坐っている女と、窓の外に立っている私を茫然たらしむべく、室《へや》中をゆすり動かして笑う笑い声であった。
「アッハッハッハッハッ……天国…………天国……天国へ行きました……アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ」
そう笑い続けているうちに気を取り直して、旧《もと》の通りの紳士に立ち帰ろうとして、眼の前の女の姿を見ると、又もたまらなさそうに笑いを押え付けるストーン氏であった。
「ええへ。ええへ。ああは。はは。ほほ。ふむ。ふむ。……御免なさい……ああはは。ほうほ。ふむ。ふむ。えっへ。御免なさい……私は……わ……わらい……ました。失礼しました。済みませんでした。私は貴女《あなた》が本当に欺されておいでになるから……笑いました。お気の毒でした。どうぞ……どうぞお許し下さい」
やっと笑いを納めたストーン氏はハンカチでもう一度顔を拭きながら女を見た。しかし女は依然として淑《しと》やかな態度を保っていた。笑われれば笑わるるほど落ち着く性質の女であるかのように見えた。そうしてこの上もなく無邪気な眼付きでストーン氏のピカピカ光る顔を見まもった。
「わたくし……欺されているのでございましょうか」
「ハ――イ」
と云いさしてストーン氏は又も笑いを押えるべくハンカチで口を拭いた。女は二三度大きく瞬《まばたき》をした。
「……どうして欺されているのでございましょうか」
こう尋ねられるとストーン氏は流石《さすが》に気の毒に堪えぬという態度になった。両脚を引っこめて、丸|卓子《テーブル》に身体《からだ》を凭《もた》せて、小学校の教員が児童を諭《さと》すような憐れみ深い、親切に充ち満ちた顔になった。
「あなたは、欺されていること、わかりませんか」
「はい……」
女は又も二三度|瞬《まばたき》をした。微笑がストーン氏の頬を横切って消え失せた。
「あなたはジョージのお母さんの名前を知っておりますか」
「はい。嬢次様から承わりました。志村のぶ子様とおっしゃるのでしょう」
「は――い。その志村のぶ子の所に行くとジョージは云いましたか」
「はい。そう仰言って貴方がお出でになる二十分ばかり前に、此家《ここ》をお出かけになりました」
微笑がもう一度ちらりとストーン氏の唇を掠め去った。
「ジョージはシムラ・ノブコの処へ行く事は出来ませぬ」
「何故でございましょう」
ストーン氏は一寸《ちょっと》躊躇《ちゅうちょ》した。しかし思い切った口調で云い放った。
「シムラ・ノブコは二年前に天国に行っております」
「そのようなこと……どうして御存じなのですか」
ストーン氏は又一寸考えた。けれども今度はすぐに言葉を続けた。
「二年前の日本の新聞に出ております。運転手に欺されて、海に連れて行かれたと書いてあります」
「けれども、お亡くなりになったとは書いてございますまい」
「……ははは……あなたその新聞見ましたか」
「はい……」
「けれども貴女《あなた》は今……クレイ・ジョージが志村のぶ子と一緒に天国へ行くと……」
「はい……。これから行かれるのでございます」
「それではシムラ・ノブコは生きているのですね」
「はい」[#底本では受けのカギカッコの前に句点あり]
「どこに……」
「あなたの曲馬団の中に……」
「ヒホ――オオ……」
「私は嬢次様に紹介して頂きました」
「……フホ――オオ……」
とストーン氏はいよいよ眼を丸くした。いかにも相手を子供扱いしているかのように、ニコニコ笑い出しながら……。
「……ホオオオ……それは……
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