ざいました。ちょうど叔父の狭山から留守を頼んで来た手紙と一緒に参りましたから、私は狭山の頼みの方をやめまして、三越に参りまして、四五日前に頼んでおきましたこの着物と着換えまして、曲馬場に参りました。ちょうどコサック馬の演技の最中でございました」
「それでは今日ジョージが、私たちの大切な馬に、毒を飲ませたこと……暴れ出させたこと……貴女《あなた》は知りませんね」
「存じております。妾《わたし》は最初からそれを見ておりました」
「えッ。見ておりました?」
「嬢次様は私と一緒に見物に来ておられたのでございます」
ストーン氏は自分の耳を疑うように眼を丸くした。
「……どこに……どんな着物……」
「……大学の制服を召して、小さな鬚《ひげ》を生やして、角帽を冠って、私が居りました席の直ぐ前隣りに坐って、そこに居た老人の紳士と馬の話をしておられました。そうして米国の国歌が済むと立ち上って表に出られましたから、私もあとから立って追い付きますと、嬢次様はグルリと曲馬場を廻って、厩《うまや》の処へ行って、亜鉛《トタン》の壁を飛び越して中に這入って、馬の顔を撫でながら錠剤にした薬をお遣りになりました。そうして今から二十分ばかりすると馬が暴れ出すから、それまで楽屋の入口に近い土間に行って見ていようと仰有《おっしゃ》って、もう一度二人分のお金を払って曲馬場に這入られました。その時が三時十分きっかりでございました」
「貴女はそれが人を殺すためであった事を知っておりましたか」
「いいえ。嬢次様は御自分を殺しても、決して人を殺さないと云われました」
「その証拠がありません」
「ございます。立派にございます。その証拠には、大馬と小犬のお芝居が済みます少し前になりますと、嬢次様は心配そうな顔をなすって、妾《わたし》にちょっと待っているように仰有って出て行かれましたが間もなく帰って来られまして……これで安心だ。この次の馬の舞踏に使う女の衣裳や靴を、楽屋のうしろから這入って、ちょっと人に解らぬ処に隠しておいたから、それを探しているうちには時が経ってしまうだろう……しかし何故こんなに早く演技を済ましたのだろう。自分が居ない事は最早《もはや》わかっている筈だから、その埋め合わせに二十分で済む芸当は三十分にも五十分にも延ばす筈だのに、この塩梅《あんばい》では大馬と小犬の芝居は二十分かからないかも知れない……と云っておられました。人を殺すおつもりならばそんな事を云ったりしたりなさる筈でございませぬ」
「いいえ。貴女《あなた》は違います。ジョージは馬の舞踏会で馬を暴れ出させて、大勢の女を殺して、私を非道《ひど》い眼に会わせようとしたのです」
「……まあ……何故嬢次様は貴方にそんな非道《ひど》い事をなさるのでしょう。貴方はそのように嬢次様ばかりをお疑いになるのでしょう。貴方はそんなにまで嬢次様に怨まれるような事をなすったのですか」
ストーン氏は答えなかった。いつの間にか、立ち場が反対になって、自分が審問される事になったのが腹立たしいらしく、口を固く閉じて、大きな眼でじっと女を睨み付けた。
しかし女はひるまなかった。今までの通りに静かな、落ち着いた口調で言葉を続けた。
「……貴方も多分御存じでございましょう。大馬と小犬の芝居が済んで、楽屋へ這入りますと、あのハドルスキーとかいう怖い方が、道化役者の支那人を大層叱っておられました。……御存じでございましょう」
ストーン氏は依然として女を睨み付けたまま、知っているとも、知っていないとも答えなかった。
「……御存じでなければお話致しましょう……。嬢次様のお話に依りますと、初め道化役者が幕を出て行きます前に、演技の時間は何分ぐらいにしたら宜しいのですかと云ってハドルスキーさんに聞きましたら、ハドルスキーさんはフィフティ(五十分)と云って指を五本出されました。それを道化役者の支那人はフィフティン(十五分)と勘違いをして、一生懸命に時間を急いで済ましたのだそうです。支那人もハドルスキーさんも大変怒って、支那語と露西亜語で云い合っているのだと云って嬢次様が笑っておられました。こんな間違いが、どうして初めから嬢次様にわかりましょう。嬢次様は馬が厩の中に繋がれたまま暴れ出すように仕組んでおられましたので、決して人を殺すためではございませぬ」
「しかし、それは泥棒をするためでした」
とストーン氏はぶっすり云った。
「いいえ。嬢次様は御自分のものを受取りにおいでになったのです。嬢次様が曲馬団を逃げ出されないように、嬢次様の一番大切なものを隠しておかれた貴方のなされ方が悪いのです。何故だかわかりませぬけれども嬢次様の自由を縛っておかれた、貴方がたの方がお悪いのです」
ストーン氏の顔は又険しくなった。しかし、こんな事で争うのは大人気ないといった風に、軽く肩をゆすって手紙の方に眼を移した。
「それから貴女はジョージが楽屋へ這入るのを見ましたか」
「はい。見ておりました。ちょうどその時に貴方は楽屋の外から這入って来られまして、ハドルスキーさんに後の事を頼んで、カルロ・ナイン嬢に挨拶の言葉を教えて……自分はこれから警視庁に行くから嬢次の写真を四五枚持って来い。今まで帰らなければ仕方がない……と云われました。それでハドルスキーさんは直ぐに探しに行かれましたが間もなく出て来て……駄目だ錠前が三つも掛かっている上に、その機械が三つとも壊れている……と云われました。それで今度は貴方が御自分でお出でになりましたけれども、やはり錠前が開きませんで、写真がお手に入りませんでしたので、そのまま警視庁へお出かけになりました」
「あの錠前はジョージが壊したのです」
「それは、お言葉の通りでございます。嬢次様は曲馬団を出がけに、持って行く隙がおありになりませんでしたので、ただ、あなた方の合鍵で明けられないように、錠前だけ壊して行かれたのです」
ストーン氏はちょっと唇を噛んだ。
「……ジョージはいつ楽屋へ這入りましたか」
「カルロ・ナイン嬢が挨拶を済ましますと直ぐに、正面の特等席で、恐ろしい叫び声が聞えて、一人の紳士が曲馬場の中央《まんなか》に駈け出して来ましたが、どうした訳か狂人《きちがい》のようになっておりました。それを楽屋から見付けたハドルスキーさんが駈け出して行って抱き止めますと間もなく又、曲馬場の外で、馬の嘶《いなな》き声と板を蹴る音が聞えましたから、楽屋の人は皆駈けつけました。女の人も皆、楽屋から出て来て見ておりましたが、その中《うち》に一匹の黒い馬が厩から飛び出して、跳ね狂いながら楽屋の方へ来ましたから、女の人たちは驚いて、泣き叫びながら曲馬場の方へ逃げて参りました。それと一緒に見物の人達が大勢、見物席から駈け出して参りましたので、その騒ぎに紛れて嬢次様は、楽屋に這入って行かれました」
「鞄の錠前は壊れていたでしょう」
「壊れた錠前を開ける位のことは嬢次様にとって何でもないのでございましょう」
「どうしてわかりますか」
「でも直ぐに黒い鞄を取って来られましたもの……」
「貴女《あなた》はその中のもの知っておりますか」
「はい。存じております。中には絵葉書が一杯入っておりました。嬢次様はそれを妾《わたし》にお見せになりまして……この絵葉書は、亜米利加《アメリカ》の市俄古《シカゴ》で見物に売った残りだ。私はこれを座長のバード・ストーンさんに貰ったのだ。これさえ隠しておけば、ほかに私の写真は一枚もないのだから、警察へ頼んでも私を探すことは出来ない……と云われました」
「……悪魔《サタン》……」
とストーン氏は突然に調子の違った声で云い放って舌打ちをした。恋のために盲目になった女が如何に手に負えぬものであるかをしみじみと悟ったらしい……と同時にストーン氏の態度から、今までの紳士的な物ごしが消え失せて一種の野蛮的な、無作法な態度に変って来た。それは恰《あたか》も馬に乗って野獣を狩り、紅印度《レッドインデヤン》と戦い、丸木の小舎に旋条銃《ライフル》を抱いて寝る南部|亜米利加《アメリカ》人をそのままに、椅子に腰をかけたまま両脚を踏み伸ばし、両腕を高く組んで、忌々《いまいま》しそうに唇を噛みしめつつ、机の上の髑髏《どくろ》に眼を外《そ》らして白眼《にら》み付けた。その兇猛な、慓悍《ひょうかん》な姿は、もし知らぬ人間が見たら一眼で顫え上がってしまうであろう。
けれども女は眉一つ動かさなかった。その淑《しと》やかに落ち着いた振袖姿は、ストーン氏とまるで正反対の対照を作っていた。ストーン氏は、そうした女の態度を見かえると、吐き出すような口調で問うた。
「ジョージはどうしましたか……それから……」
「はい。二人で曲馬場を出ますと嬢次様は、表に立って絵看板を見ていた夕刊売りから夕刊を二三枚買って、一面の政治欄を見ておられましたが……」
「政治欄……政治の事が書いてあるのですね」
「そうでございます」
「どんな記事を読んでおりましたか」
「……さあ……それは妾《わたし》には、よくわかりませんでしたけど……どの夕刊の一面にも……日仏協商行き悩み……と大きな活字で出ておりまして、英吉利《イギリス》と亜米利加《アメリカ》が邪魔をするために日本と仏蘭西《フランス》の秘密条約が出来なくなったらしいと書いてありました」
「……ジョージはそこを読んでおりましたね」
「……それからその中の一枚に……極東|露西亜《ロシア》帝国……セミヨノフとホルワットが露西亜の皇族を戴いて……という記事と……張作霖《ちょうさくりん》が排日を計画……という記事がありましたのを嬢次様は一生懸命に読んでおられました」
「曲馬団の前で?」
「いいえ。ずっと離れた馬場先の柳の木の蔭で読まれました」
「……フ――ム……それからどうしました」
「嬢次様は、そんな記事を見てしまわれますと、深い溜息を一つされました。そうして……これはなかなか骨が折れるぞ……と云われましたが、その時にふっと曲馬場の入口の方を見られますと、急いで妾の手を取って、近くに置いてあった屋台店の蔭に隠れられました」
「それは何故ですか」
「ちょうどその時、はるか向うの曲馬団の改札口から出て来た一人の紳士がありました。その紳士は四十ばかりに見える髪の黒い、鬚のない、灰色の外套を着て、カンガルーのエナメル靴を穿いた方で、最前キチガイのように騒いで、ハドルスキーさんに抱き止められた人でしたが、嬢次様はその人を指さして、あの紳士が叔父様の狭山九郎太氏と教えられました」
「えっ」
とストーン氏は思わず身を乗り出した。丸|卓子《テーブル》の上に両手を突いて、眼を剥き出して女の顔を見た。
珈琲の匙《さじ》がからりと床の上に落ちた。
「……叔父様……ミスタ・サヤマ……どうして来ておりましたか」
「はい。私も初めは吃驚《びっくり》致しました。あんまり変りようが非道《ひど》うございましたから……ですけど嬢次様は初めから、そうらしいと気が付かれましたので、わざと怪しまれないように近い処に坐っておられたのだそうでございますが、そのうちに叔父が叫び声をあげて席を飛び出しましたので、いよいよそうに違いない事が、嬢次様にお解りになったそうでございます」
「どうして……」
「叔父は、妾《わたし》共のする事をいつの間にか残らず察しておりまして、次の馬の舞踏会の最中に騒ぎが初まりそうなのを心配して、あんなに狼狽《うろたえ》たのに違いございませぬ。……でも叔父でなければどうしてそんな事まで看破《みやぶ》りましょう。……叔父がいつもこうして妾を見張っていてくれる事がわかりますと、妾は有り難いやら、恐ろしいやら致しました」
「ジョージは叔父様に会おうとしませんでしたか」
「いいえ。その時に嬢次様は云われました。……最早《もう》仕方がない。叔父様は何もかも知っておられる。そうして叔父様は自分が曲馬団を非道い眼に会わせようとしたものだと思っておられるに違いない。けれどもその云い訳をする隙《ひま》がもうないのだ。自分は誰に疑われてもちっとも怖いとは思わない。ただ狭山さんに白眼《にら》ま
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