ーン氏が感付かずにいるのだ。氏の困った表情と、額の汗が何よりも雄弁に、そうした事実を証拠立てている。そうしてその事実が間違いないという事を、もう一度私の家の中で主人らしく取り澄ましている氏名不詳の女の態度が、しとやかに裏書きしているのだ。私を欺くための芝居では断じてない。
 しかも、そうした事実は更に、紫のハンカチと、J・I・Cとが全然無関係である。否、むしろ讐敵《かたき》同士かも知れない……という驚愕すべき事実を、いとも儼然《げんぜん》と証拠立てている事になるではないか。私の第六感によって推理した事件の真相の中心となるべき事実が、全然一場の無意味な幻覚に過ぎなかった事を、余りにも如実に裏書きしている事になるではないか。
 私はそう気付くと同時に、私の頭の中に築き上げられた推理の空中楼閣が、早くも根柢から土崩瓦解《どほうがかい》し初めたように感じた。折角《せっかく》ここまで押し詰めて来た張り合いが、一時にパンクしてしまって、又もふらふらと前にノメリ倒れそうな気がした。それを窓の框《かまち》に手をかけてやっと我慢しつつ、もう一度|背後《うしろ》の闇を見まわした。誰か見ているような気がしたので……。
 ……しかし……最早こうなっては取り返しが付かない。室《へや》の中の二人の素振りと会話の模様によってもう一度、判断を建てかえて行くよりほかに方法はない……と思い返すと又も、室《へや》の中の光景を一心に覗き込んだ。……何という難解な……不思議な事件であろう……と心の奥底で溜息をおののかせながら……。
 ……と……やがてストーン氏は伏せていた眼を見開いた。大きな、青い、ぎょろっとした眼だ。それからハンカチを取り出して額の上の汗を拭き終ると、女の顔に眼を据えた。女はストーン氏の偉大な体格に圧倒されて、いくらか小さくなっているようであったが、硝子《ガラス》窓の外からは聞えぬくらい微かな、弱々しい声で、
「……どうぞ……」
 と珈琲をすすめた。ストーン氏はいくらか遠慮勝ちに、
「……ハーイ……アリガト……ゴダイマス……」
 と怪《あや》し気な日本語で会釈して、巨大《おおき》な手で赤い小さな百合形《ゆりがた》の皿を抱えたが、それでも咽喉《のど》が乾いていたと見えて美味《おいし》そうに啜《すす》り込んだ。
 女は立ってまた一杯|注《つ》いで角砂糖を添えた。
 ストーン氏は謹んで会釈した。
 私はちょっとの間《ま》変に可笑《おか》しくなった。この場合に似合わしくない話だけれども事実であった。何だかお伽話にある獅子の王様が、狐に嘲弄《からか》われている芝居を見るような気がしたからである。けれどもまた、すぐに真面目に返って、二人の言葉を一句も聞き洩らすまいと耳を引っ立てた。
 ストーン氏は引き続いて日本語で話し初めた。
「貴方《あなた》のお家《うち》は大変わかりませんね。私は一時間、この村を……町を歩きました。この村は……町は大変広い町です」
「折角お出で下さいましたのに生憎《あいにく》留守でございまして……」
 女の声は何となく力がない……響のない声のように思えた。幾分固くなっているせいでもあろうか。けれどもその容色に相応《ふさわ》しい優美な口調ではあった。
「いいえ。どう致しまして、お留守ならば仕方がありませぬ。その代り私はこの室《へや》で休む事が出来ました。今日は大変忙しかったのです。けれども貴女《あなた》には済みませんでしたね」
 ストーン氏の日本語は思ったより巧くなって来た。どこで稽古したものか知らぬが、二年や三年の稽古ではこんなにハッキリした巧い調子に行くものでない。けれどもこれに対する女の返事は、あく迄も優しく弱々しかった。
「どう致しまして……。そして……あの……もし……御用でも……ございますなら……何なら……私が……」
「はーい。ありがとうございます」
 と云いながらストーン氏は一寸《ちょっと》、室《へや》の中を見まわした。室内の一種異様な気分に気が付いたらしい。氏は机の上の骸骨と書物に眼を注いだ。それから背後の美人画と時計を気軽く振り向いた。そうして非常に失望したらしく眼をぎょろりと剥《む》き出して、念を押すように厳重な口調で問うた。
「……それでは……サヤマ先生は……暫くお帰りになりませんね」
 女は何気なく答えた。
「はい、よくこうして出かけますので……長い時は一週間も……短かい時は一日か二日位で帰って参ります。時には夜中に帰って来たり、朝の間《ま》の暗いうちに帰って来たりする事もございますが、その留守はいつも妾《わたくし》が致しております」
 ストーン氏はちょっと妙な眼付をしたが、やがて又、何気なく尋ねた。
「……先生は……大変お忙しいお方ですね」
「はい。いつも外に出歩くか、さもない時には家《うち》に居りましても器械をいじったり、書物を調べたりして、むずかしい顔ばかり致しております。時々そんなような勉強に飽きて来ますと、妾を捕まえまして科学《サイエンス》とか哲学《フィロソフィ》とか英語のまじったむずかしいお話をしかけますけれども妾にはちっともわかりません。そうしておしまいに……わかったか……と申しますから……わかりません……と答えますと、いつでも淋しそうに笑って……お前にはそんな事は解らない方がいい……と申します」
 女はいつとなく滑かに饒舌《しゃべ》り出した。しかもその饒舌《しゃべ》っている事実は、私を題材とした女の創作物語に過ぎなかったが、しかし、何も知らないストーン氏は女の最後の言葉を聞いて笑い出した。
「ハハハハ。先生は大変に学問の好きなお方ですね。そうして大変に真面目なお方でいらっしゃいますね」
「はい。嘘を云う事が一番嫌いでございます。人間は誰でもお金持になれるとは限らない。けれども嘘を云う事と、怠ける事さえしなければ、その人の心だけは、屹度《きっと》幸福に世を送られるものだと、よく私に申しました」
 こう云いながら女は初めて眼をあげてストーン氏を見た。その言葉には処女らしい熱心さが充ち満ちていた。ストーン氏はその美に打たれたように眼を伏せながら、念入りにうなずいて見せた。そうして気を換えるように微笑を含みながら云った。
「貴女《あなた》は先生がお留守の時淋しくありませんか」
「いいえ。ちっとも……」
 と女は力を籠《こ》めて云った。
「私がここに居りますのはお城の中に居るよりも安心でございます。この家の主人の眼が、どんなに遠くからでも見張っていてくれるからでございます。その手は今でもこの家を守るために暗の中に動いているのでございます。そうして妾を安心して睡らしてくれるのでございます」
 この言葉は如何にも日本人らしくない云い表わし方だと思ったが、ストーン氏は却ってよくわかったらしく、如何にも感心した体《てい》で肩をゆすり上げた。
「先生は本当に豪《えら》いお方です」
「はい。私は親よりも深く信じて、敬っているのでございます」
 ストーン氏は又一つ深くうなずいた。そう云う女の顔をじっと見詰めて、軽い溜息を洩らした。

 私は又も堪らなく可笑《おか》しくなって来た。
 一生懸命で緊張しているところへ、こんなトンチンカンな芝居を見せられるからであろう。しかもその舞台に現われている役者は両方とも極めて真剣である。すくなくとも男の方は一方ならず感心しているらしい。いつの間にか女の美貌と、その巧妙な話術に引き込まれて、肝腎の用向きも何も忘れた体《てい》である。ストーン氏は又もすこし躊躇しながら、微笑しいしい問うた。
「……失礼……御免下さい。私は先生は本当に一人かと思っておりました」
「え……」
 と女は質問の意味がわからなかったらしく顔を上げた。ストーン氏はいよいよ躊躇した。
「……失礼……おゆるし……なさい。狭山さんは、いつもほんとうに一人でこの家に暮しておいでになる事を、亜米利加《アメリカ》で聞いておりましたが……」
 女はちょっとうなずいた。けれども返事はしなかった。ストーン氏はとうとう真赤になってしまった。
「……大変に……失礼です。先生は……貴方《あなた》のお父さんですか」
 女はやっと莞爾《にっこり》してうなずいた。そうして心持ちSの字になって、うなだれた。
「はい。狭山は妾《わたくし》のたった一人の親身の叔父でございます。妾も亦叔父にとりましてはたった一人の姪《めい》なのでございますが、いつも妾を本当の子供のように可愛がってくれますから、本当に父になってくれるといいと……いつもそんなに思っているのでございます」
 といううちに今度は女の方が耳まで真赤になってしまった。
 この真に迫り過ぎた名優振りには、流石《さすが》の私も舌を巻かざるを得なかった。……これ程のすごい技倆《うで》を持った女優は、西洋にも日本にも滅多に居ないであろう。リスリンの涙を流す銀幕スターなんか糞《くそ》でも喰らえと云いたい位である。現在嘘と知っている私でさえも、まともにこの女の手にかかったら嘘と知りつつパパにされてしまうかも知れない……と気が付くと、思わずぞっとさせられた位であった。まして何も知らないストーン氏が、どうして参らずにおられよう。如何にも尤《もっと》も至極という風に幾度も幾度もうなずかせられたのは、はたから見て滑稽とはいえ、当然過ぎるほど当然な事であった。
「……そうですねえ。ほんとうにそうですねえ。それでは、いつでもお二人でこの家にお出でになるのですねえ」
「いいえ……あの……一緒には居ないのでございます」
 と女はすこし顔を上げた。
「……平生《ふだん》は妾は遠方の下宿に居るのでございますが、叔父が家《うち》を留守にする時には、いつもどこからか速達便や電報で妾を呼び寄せるのでございます」
 ストーン氏はこの言葉を聞くとやっと仔細《わけ》が判然《わか》ったらしく点頭《うなず》いた。けれども、それと同時にいよいよこの女に興味を持ち初めたらしく身体《からだ》をすこし乗り出して来た。
「……はーい……それでは貴女《あなた》の御両親は……」
「わたくしには両親も何もございませぬ。ただ叔父一人を頼りに……致しているのでございます」
 女の言葉は急に沈んで来た。そうして又も悲しそうにうなだれてしまった。
 名優……名優と、私は又しても心の中《うち》で讃嘆せずにはいられなかった。その言葉つき……その態度……その着物のなよやかな襞《ひだ》までも、実にしっくりと情をうつしていて、だしに使われている赤の他人の私までも、他に身より頼りのないこの女と、その叔父さんなる者の淋しい生活を気の毒に思わせられた位である。
 まして御同様に赤の他人の、何も知らないストーン氏が、どうして心を動かさずにいられよう。まったくの初対面の美少女に対して、あまりに詮索がましく尋ね過ぎた事を、心から後悔したらしく、如何にも済まない顔になって、ハンカチで鼻や口のまわりを拭いていたが、やがて内衣嚢《うちかくし》から名刺入れを出して、その中の一枚を自分で来たという証拠《しるし》に折り曲げて、女の前の丸|卓子《テーブル》の上に載せた。そうして詫びるような口調で云った。
「……どうぞ……どうぞ失礼御免なさい。私は自分の名前をまだ申しませんでした。そしてお嬢様に大変な失礼な事をお尋ねしました。これは私の名刺です。バード・ストーンと申します。叔父様がお帰りになりました時に見せて下さい。……私は今日大変な用事で伺いました。その用事が急ぎましたから電話をかけないで失礼しました。けれどもお留守で大変残念でした。もしお帰りになりましたら話して下さい。貴女《あなた》から……何卒《どうぞ》……そしてこの手紙を見せて下さい」
 と云ううちに又内ポケットから日本封筒に入れた一通の手紙を出した。それは警視庁専用のもので粗悪な安っぽいものであるが、ストーン氏はそれを如何にも大事そうに名刺の傍に置いて左手の中指でしっかりと押えた。
「これは私の大切な手紙です。私は今、ある一人の子供を探しております。けれども私は上手に探す事が出来ませんから警察……警視庁へ行きました。そこで一番上手な探偵の人
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