眼にかかってお礼申上げる機会がないかも知れませぬ事を悲しく思います。
 お身体《からだ》を大切に願います。

 ――さようなら――[#地付き、地より3字アキ]

 読み終ると私は絵葉書をぽんとたたいた。
 ……これだ。これが彼奴《あいつ》等のトリックなんだ。俺の第六感はこの通り全部的中しているのだ。
 ……よろしい……紫のハンカチはたしかに受取ったぞ。その代りに白い眼かくしを送ってやるぞ。
 ……しかし貴方の御親切が私の生命はよかったな。全くその通りだ。アハハだ。
 ……もう一人の相棒も洒落《しゃれ》てるぞ。情婦と書かないところがしおらしいぞ……ははん……。
 こんな事をつぶやくともなく冷笑した私は、反射鏡《バック・ミラー》越しに運転手をちらりと見て、車内照明《ルーム》を消さした。
 自動車はもう、日比谷公園の中から虎の門を横筋かいに、溜池《ためいけ》の通《とおり》を突き抜けている。何の事件か知らないが豆を撒《ま》いたように街路を狂奔する号外売を、追い散らす間もなくすり抜けすり抜けして赤坂見附の真中に片手を揚げている交通巡査をちらりと見残したまま一気に東宮離宮横の坂を飛び上った。
 その時に私はふと思い出して、腰のポケットを撫でてみたが、そこにはT型七連発のブローニングがちゃんと納まっていた。小型ではあるが新火薬の尖弾で、二百|米突《メートル》以上利く凄いものである。
 自動車は一度もストップを喰わずに新宿駅に着いた。
[#改丁]

     下巻
[#改頁]

 まだ月が出ない。
 暗い掘割りの底の遠く遠くに小さなイルミネーションのような中野駅が見える。
 今乗って来た山の手電車は、蒼白いスパークをレイルに反射させながら、その方向へ一直線に、小さく小さく吸い寄せられて行った。
 暗い掘割りの一町ばかり向うに、黒い木橋《もっきょう》が架かっている。その左手には高い火の見|梯子《ばしご》が見える。それと向い合って、木橋の右手の坂下には、私の家の門口にある高さ三丈ばかりのユーカリの樹が梢《こずえ》を傾けているが、その上空には無数の星が明日《あす》の霜を予告するように羅列している。冬のおわりの最も澄み切った、厳粛な夜である。
 私は急に気分が引き締って来るのを感じた。一事、一物も見逃してはならないぞ……後で笑われるような軽卒な事をするまいぞ……死生を超越した八面|玲瓏《れいろう》の働きをするのだぞ……そうして徹底的にやっつけるのだぞ……と改めて自分自身に云い聞かすように考えながら、もう一度腰のポケットを撫でてみた。全く、これ程のものを相手にしたのは今度が初めてである。従ってこれ程に精神が緊張したこともまだ曾《かつ》てない。どんな難事件に出会っても、どんな強敵を相手にしても、綽々《しゃくしゃく》として余裕を保っていた私の精神は……身体《からだ》はギリギリと引き締まって、ちょっと触《さわ》っても跳ね上る位になっていた。
 併《しか》し表面は飽くまでも平静を装うていた。今の電車から降りた官吏や、学生や、労働者らしいものが十二三人急いで行くのに混じって、悠々と大胯《おおまた》に踏切を越えた。平生よりももっと当り前の(もしそんな状態があり得るとすれば)歩きぶりで自分の家の門まで来た。
 見ると出がけに確かに閂《かんのき》を入れて南京《ナンキン》錠を卸しておいた筈の青ペンキ塗りの門の扉が左右に開いて、そこから見える玄関の向って左の一間四方ばかりの肘掛《ひじかけ》窓からは、百燭ぐらいの蒼白い電燈が、煌々《こうこう》と輝き出している。
 ……おや……と思って私は立ち止まった。
 その窓には非常に綿密なドローン・ウォークを施した、高価なものらしい白麻の窓掛《カーテン》が懸かって、一面に眩《まぶ》しいハレーションを放射している。私の家は殺風景な青ペンキ塗りの板壁で、あんな贅沢な窓掛とは調和しない。この上に今は二月の末で、白い窓掛は明かに時候外れである。その向う側で、電話にかかっているらしい話声が聞えるが、程遠い上に、硝子《ガラス》窓に遮られているのでよく聞えない。
 私は暫く門の処に石像のように突立っていた。百燭の青電球に照し出された白い窓掛と、その光りを反射して雪のように輝いている庭の茂みを見まわしていた。庭の隅々や、家の向う側に隠れている人の気配が感じられはしまいかと、眼を凝らし、耳を澄ましていた。しかし、そこいら中はひっそりかんとしていて、そんな気配はちっとも感じられなかった。
 私は自分の家ながら、敵の住家を見るような気持ちがした。何かしら想像以上のものが……もしくは私の神経以上の敏感なものが待ち構えているようで、容易に門の中へ這入れなかった。況《ま》して窓の中を覗くのはこの上もない冒険で、白い光りの幕を背景にした私の影法師を、道沿いの電車の音に紛れて狙い撃ちにするのは訳ない事であった。
 電車が二つばかり轟々《ごうごう》と音を立てて私の背後《うしろ》の線路を横切った。ユーカリの枯葉が一二枚、暗《やみ》の空から舞い落ちて微かな音を立てた。
 その音を聞くと、急に私は自分の臆病さに気付いて可笑《おか》しくなった。
 二十何年間の探偵生活に鍛え上げられた自分の神経を思い出しつつ人通りの絶えたのを幸いに抜き足さし足窓の所に近付いた。ちょうど窓の右手の処にこんもりした椿の樹が立っていて、暗《やみ》の中に赤い花を着けている。その蔭に身を寄せて、窓の隅に映っている丸い影法師……それは卓上電話の頭であった……の中央にあるドローン・ウォークの編み目から内部を覗いた。
 すぐに室《へや》の中の様子がすっかり変っているのに気が付いた。つい五六時間前に、少年嬢次と話をした時まで、樅《もみ》の板壁に松天井、古机に破れ椅子というみすぼらしい書斎の面影は跡型《あとかた》もなくなっている。
 四方の壁は印度更紗《インドさらさ》模様を浮かしたチョコレート色の壁紙で貼り詰めてある。天井には雲母刷《うんもず》り極上の模様紙が一等船室のように輝いている。床には毒悪な花模様を織り出した支那産の絨毯が一面に敷き詰めてあるし、窓に近い壁際の大机と室の真中の丸|卓子《テーブル》には深緑色のクロス。又、その丸|卓子《テーブル》を中にして差し向いに据えられた肘掛椅子と安楽椅子には小紋|縮緬《ちりめん》のカヴァーがフックリと掛けられている。
 そのほか窓際の小卓子《テーブル》の上に載っている卓上電話機の左手の大机の上に、得意然と輝いている卓上電燈の切子笠。その横に整然と排列されている新しい卓上書架。その上に並んだ金文字のクロス。凝った木製のペン架け。銅製のインキ壺。それから真中の丸|卓子《テーブル》の上に並んでいる舶来最上の骨灰焼《こっぱいや》きらしい赤絵の珈琲《コーヒー》機。銀製の葉巻皿と灰落し。……いずれを見ても成金《なりきん》華族の応接間をそのまま俗悪な品物ばかりである。
 ところでその中にも、この強烈な配合を作っている飾付けの全部を支配して、室《へや》中の気分を一層強く引き締めているものが三つある。その一つは正面の壁に架けてある六号型マホガニーの額縁で、中には油絵の裸体美人が一人突立って、両手を頭の上に組んで向う向きに立って草原の涯《はて》に浮かむ朝の雲を見ている。構図は頗《すこぶ》る平凡であるが、筆者は評判の美人画家青山|馨《かおる》氏だけに、頗る婉麗《えんれい》な肉感的なもので、同氏がこの頃急に売り出した理由が一眼でうなずかれる代物である。その次は、これも正面の壁の左上に架かった金色|燦爛《さんらん》たる柱時計である。蛇紋石《じゃもんせき》を刻み込んだ黄金の屋根に黄金の柱で希臘《ギリシャ》風の神殿を象《かたど》り、柱の間を分厚いフリント硝子《ガラス》で張り詰めた奥には、七宝細工の文字板と、指針があって、その下の白大理石の床の上には水銀を並々と湛えたデアボロ型の硝子《ガラス》振子が悠々閑々と廻転している。
 それからもう一つは、大机の書架の前に置かれた紫檀《したん》の小机の上に置かれた白い頭蓋骨である。この髑髏《どくろ》は多分標本屋から買って来たものであろうが、前の二品ほどの価格はないにきまっている。けれどもその黒い左右の眼窩《がんか》が、右正面の裸体美人の画像を睨み付けて、室《へや》中に一種|悽愴《せいそう》たる気分を漲《みなぎ》らしている魔力に至っては他の二つのものの及ぶところでない。否……彼《か》の裸体美人も黄金の神殿型の時計も、この頭蓋骨の凹んだ眼に白眼《にら》まれて、初めて、これだけの深刻な気分を出し得たものと考うべきであろう。どんな気の強い人間でも、この室《へや》に暫く居たならばきっとこの神秘的なような俗悪なような、変てこな気分に影響されずにはいられないであろうと思われるくらいである。
 しかし生れつき皮肉な私の眼は、こんな風にしてこの室《へや》の変化に驚きながらも、この時既に、凡《すべ》ての飾り付けの中に多くの胡麻化《ごまか》しがある事を発見していた。
 たった今気がついた左右の出入口の、褐色ゴブラン織りの垂れ幕は、青ペンキ塗りの粗末な扉《ドア》を隠すためである。壁際の大机は今まであったものだが、室《へや》の真中の丸|卓子《テーブル》も、私が実験室で使っていた顕微鏡台ではないか。
 卓上電燈も笠こそ変っておれ、私が六七年前に古道具屋から提げて来たもので、百燭の青電球も実験室備え付のものに相違ない。本立や書物も同様で、椅子に至ってはただ縮緬の蔽いが……しかも寸法の合わないものが掛かっているだけで、中味は昔のままの剥げちょろけた古物に違いないのである。只そんなものが、色々の贅沢な装飾品で、如何にも巧みに釣合を取られているからちょっと気が付かないので、そのためにこれだけは昔のまま、室《へや》の隅に置いてある火の気のない瓦斯《ガス》ストーブまでも引っ立って、勿体らしいものに見えているに過ぎないのである。
 その室《へや》のまん中の丸|卓子《テーブル》の上に唯一つ上を向いた赤絵の珈琲茶碗には、銀の匙《さじ》と角砂糖が添えられて、細い糸のような湯気が仄《ほの》かに立ち昇っている。そのこちら側の肘掛椅子に、最前の女優髷の女が被布を脱いで、小米桜《こごめざくら》を裾模様した華やかな錦紗縮緬《きんしゃちりめん》の振袖と古代更紗《こだいさらさ》の帯とを見せながら向うむきに腰をかけている。どこかの着附屋の手にかかったらしく、腋の下がきりきりと詰まって素敵ないい恰好である。ガーゼと色眼鏡は外しているが電燈の光りを背後《うしろ》にしているために、暗い横顔だけしかわからない。
 その向い側の美人画を背後《うしろ》にした椅子には、最前絵葉書で見たバード・ストーン氏が、写真の通りの服装で腰をかけている。只胸に薔薇《ばら》の花が挿してないばかりである。氏は写真よりも五つ六つ年を取った四十五六に見える男盛りで、顔面の表情は写真よりもずっと厳《いか》めしい。殊にその四角い額の中央に横わった一本の太い皺《しわ》と、高く怒《いか》った鼻と、大きく締った唇と、頑丈にしゃくった顎とは意志の強い、大胆な、どんな事でも後には引かぬという性格をあらわしているようで、その切れ目の長い眼の底には、獅子《しし》でも睨み殺す光りが籠もっているように見える。
 女は十年も前からこの家に居る……という風に落ち着いて、澄まし込んでいるが、ストーン氏の方は困ったという顔付で、両腕を組んで、眼を半眼に開いてへの字口をしている。のみならず氏はたった今この家に来たものらしく、百燭の電燈に真向きに照されたその顔は、急いだためか、真赤になっていて、広い四角い額には湯気の立つ程、汗が浸《し》み出している。
 白い窓掛けの理由がやっと判明《わか》った。女は百燭の電光と、白麻の窓掛けの強烈な反射で、相手の眼を眩《くら》まそうとしているのだ。
 私はこの驚くべき事実に対して眼を瞠《みは》らない訳に行かなかった。
 二人は赤の他人なのだ。他人も他人、全くの初対面で、しかも女は何かしらバード・ストーン氏に対して敵意を持っているのをバード・スト
前へ 次へ
全48ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング