もらう事にする。
ところで冒頭に断っておくがこの第六感というものは、千里眼、又は催眠術なぞという迷信的なものとは全然別物なので、あんなあやふやな奇蹟的なものではない。儼然《げんぜん》たる科学の範囲に属する感覚である事である。
すなわち普通の人が知っている眼、耳、鼻、口等の五官の作用以外に存在する凡《すべ》ての直覚力を仮りに「第六感」と名付けたもので、手近く人間の第六感で例を引けば、或る人間が或る一瞬間に、理窟も何も考えないで、ただ「これはこうだナ」とか「それはそうだナ」とか感じた事が百発百中|図星《ずぼし》に的中《あた》っている事で、新聞記者が朝眼を覚ますと同時に「今日は何か事件の起りそうな日だな」と思ったり、又は刑事巡査が犯罪の現場に来ると直ぐに「犯人はまだ近くに居るな」と感じたりするのが、まるで偶然のように事実と符合して行くのは皆、この第六感の作用に他ならないのである。その他、博奕打《ばくちうち》が相手の懐合《ふところあ》いを勘定したり、掏摸《すり》やインチキ師が「感付かれたな」と感付いたり、馬道《うまみち》あたりの俥屋が、普通の客としか見えない男を捕えて「吉原《なか》まで如何《いかが》です」と図星を指したりするのも皆この「第六感」の一種に数えられるのである。
しかも、私の考えに依ると、斯《か》ような第六感の作用は人間ばかりに限ったものでない。広く動植物界を見渡してみると誠に思い半ばに過ぐるものがある……否……人間世界に現われる第六感の実例よりもずっと甚しい、深刻な現象を到る処に発見する事が出来るので一々数えてはおられない位である。早い話が地平線下に居る獅子を発見して駱駝《らくだ》が慄《ふる》え出したり、山の向うに鷹が来ているのを七面鳥が感付いて騒ぎ立てたりする。蛭《ひる》が数時間後の暴風を予知して水底に沈み、蜘蛛《くも》が巣を張って明日《あす》の好天気を知らせ、象が月の色を見て狼群《ろうぐん》の大襲来を察し、星を仰いだ獺《かわうそ》が上流から来る大洪水を恐れて丘に登る。そのほか、犬、猫、伝書鳩が故郷に帰る能力なぞ、五官の活用ばかりでは絶対に説明出来ない事である。しかもこれがもっと下等な生物になるともっと明瞭に現われて来るので、朝顔の蔓《つる》が眼も何もないのに竹の棒を探り当て、銀杏《いちょう》の根が密封した死人の甕《かめ》を取り囲む。又は林の木の枝がお互同志に一本でも附着《くっつ》き合ったり、押し合ったりしているものはなく、皆お互に相談をして譲り合ったかのように、程よく隔たりを置いているのも、この考えから見れば何の不思議もないので、換言すれば下等な生物になればなる程……耳や鼻や口がなくなって、五官の活用がなくなればなくなる程……第六感ばかりで生活している事になる訳である。
だから人間の中でも文化程度の低いものほど「第六感」が発達している理由がよくわかって来る。野蛮人は磁石なしに方角を知り、バロメーターなしに悪天候を前知する。又は敵の逃げた方向を察し獲物の潜伏所を直覚するなぞ、その第六感の活用は驚くべきものがある。これは我々文明人が、あまりに眼とか耳とかいう五官の活用に信頼し過ぎたり、理詰めの器械を迷信し過ぎたりするために、この非常に貴い、この上もなく明白な「天賦の能力」を忘れているからで、一つは近頃の世の中が、あまりに科学や常識を尚《たっと》ぶために、人間の頭が悪く理窟で固まってしまって「神秘」とか「不思議」とか「超自然」とかいう理窟に当て箝《は》まらない事を片端《かたはし》から軽蔑して罵倒してしまうのを、文明人の名誉か何ぞのように心得ているために、このような大きな自然界の事実を見落しているものと思う。
その証拠にはこの問題を普通の人に持ちかけると皆、符節を合わせたように同じ返事をする。
「それは特に貴下のような特別の職業に従事している人に限って発達している一種の能力で、我々は及びもつかぬ事でしょう」
と云う。そこで私が追《お》っ蒐《か》けて、
「いやそうでないのです。凡ての生命《いのち》あるものは皆、この能力を持っているものです。私共にだけあって貴方《あなた》がたにないという理窟はありませぬ。この宇宙間には眼で見え、耳で聞え、鼻に匂い、舌で味《あじわ》われ、手で触れられるもの以外に、まだまだ沢山の感じられ得るものがあるのです。下等な動物は五官の作用を持たないままに、そんなものを直覚して生活しているのです。それがだんだん高等な動物になって、手が生え、舌が出来、眼が開《あ》き、耳が備わって来るにつれて、そんな五官の作用ばかりをたよりにするようになって、ほかの直覚作用を信じなくなって来るために、そんな作用がだんだん退化して来るのです。殊に文明人となると、五官の働きを基礎とした学問や常識ばかりをたよりにして電信電話以外に遠方の事はわからない。X光線以外に物は透かして見えない。指紋足跡の鑑識と、三段論法式の推理と、三等訊問法以外に犯罪の探偵方法はない……と固く信じているために、これ程に明白な第六感の存在を首肯する事が出来ないのです」
と説明しても、
「へえ。そうですかね。どうも貴方の議論は高尚過ぎて、われわれには解りかねます」
とか何とか云って逃げてしまう。そうして大神宮のお札《ふだ》売りか、大道易者にでも捕まったように、表面《うわべ》では尊敬して、内心では大いに軽蔑した表情をする。しかもその心の底では「どうもそんな事がありそうだ。時々そんな気がする事がある。或《あるい》は事実かも知れぬ」と感じながらも、それを押し隠そうと努力している。その証拠には、隠しても隠し切れぬ苦笑いがその表情の中に浮き出して来る。これはその人の心の底に隠れている第六感と、常識とが互に相争っているからで、この傾向は相手に地位があればある程、又は教育があればあるだけそれだけ甚しい。こうして現代の唯物科学的文明は、この大問題を見向きもしないで振り棄てて行くので、私はこれを人類文明の大損害と思っている。
ところでここでもう一つ傍道《わきみち》に這入って説明しておかなければならぬ事は、人間が「第六感」を感ずる場合に三種類ある事である。
元来この第六感というものは、今まで説明したところでもあらかた察しられる通り、人間が普通の常識とか、妄想とか、空想とか、又は智慧分別とかいう雑念の一切合財から綺麗に離れた、純真純一な空《から》っぽの頭になった時に感ずるもので、その第一例としては、和漢の高僧、名知識と呼ばれる人々が、遠方の出来事を直感したり、将来の一大事変を予知した話が、屡々《しばしば》世に伝えられている実例がある。しかし、これは余程修養の積んだ、悟りの開けた人間に限った話で、吾々のような俗物が、いつもかもそんな澄み切った、超人的な気持ちで澄まし込んで、無線電信のアンテナ見たいに、ふんだんに第六感ばかりを感じている訳には行かない。だから、これは第一種の特別の部類として敬遠しておく事にするが、しかしながら、かような第六感を感じ得るのは何もそんな名僧知識に限ったものではないのである。吾々のようなありふれた俗物でも、時々、名僧知識と同様の何の気もない無心状態になって「第六感」を受けている場合は屡々あり得るので、その場合を私は又、仮りに二種類に分けて考えているのである。
その第一種は昔から俗に云う「虫の知らせ」という奴で、細かく分けると「鴉《からす》鳴きが悪い」とか、「下駄の鼻緒が切れた」とか「鼬《いたち》が道を切った」とか、又は「夢見が悪い」とか「鳥影がさした」とかいうあれである。これはその人間の第六感が或る事を感じていながら、まだ意識のうちに現われて来なかったのが、そんな出来事に出会った拍子にひょいと現われて、何かの異変を知らせているので、決して迷信とか旧弊といって排斥すべきものではないのである。
譬《たと》えば鴉がいつもと違った陰気な低い声で「カアア……」と啼《な》く。おやと思ってその方を見る。その瞬間、その人の頭の中にあるいろいろのあり触れた妄念が綺麗に消え失せて、只ぽかんとした空《から》っぽの頭になる。そこに「第六感」がアリアリと浮かみ現われて、その日のうちに起りかけている悪い出来事を感じている。
鼬がすらりと道を横切る。……アレ……と思ってその影を見送るはずみに、今まで考えて来た事をふッと忘れる。あとには「第六感」だけが残って、行く手の災難を予覚している。
誰でも下駄の鼻緒が切れるとハッと思う。何も考えずにジッと見詰める。その心の空虚に「第六感」が閃めきあらわれて、誰かの大病を感付いている。
夢を見て覚めた瞬間はどんな英雄豪傑でもぽかんとしている。その時に第六感が働く。夢が悪いのではない。その夢を見て覚めた瞬間に第六感が凶事を感ずるから、今見た夢が何かしら悪いしらせのように感じられるので、そんなのが後《のち》に正夢となって思い合わされるのである。
前に挙げた数例でも同様で、別に鴉や、鼻緒や、鼬が凶事を知らせている訳ではない。その瞬間に受けた「第六感」の感じがよくなかったのを錯覚して、鴉や、鼻緒や、鼬が気を悪くさせたかのように人に話す……そうすると、そんな感じを経験した人が案外多いために、吾れも吾れもと共鳴してこんな迷信を云い伝えるようになったもので、そんな事を云い出すのが、頭の単純な昔の人間や、田舎者であるのを見ても、こうした俗説の起りが「第六感」の作用から起っている事がわかる。
尚、こうした第六感の錯覚作用は次の例を見れば一層よく解る。
よく……鳥影がさした。今日はお客があるだろう……なぞいう事があるが、これは普通女に限って云う事で男は滅多にこんな言葉を口にしないようである。しかも女がこんな事を云い出す時は、大抵日当りのいい障子《しょうじ》の側で、静かに縫い物か何かしている時で、ばたばたと忙《せわ》しく働いている時は余り云わぬ。ところで誰でも知っている通り女が縫い物をする時は、眼を絶え間なく小さな針の先に注いでいるために、気持ちが平生《ふだん》よりもずっと澄み切っていて、只いろいろと取り止めもない夢のような事を考えている。つまり女の頭の中には、平生《いつも》の常識的な、理窟ばった考えは微塵《みじん》もなくなって、人間世界を遠く離れたうっとりした気持ちになっている。こんな時が第六感の最も鋭く働く時で、女はその澄み切ったあたまの中に、いつとなく一人の客人が遠くから、自分の家《うち》に向って動いて来るのを感じている。しかしそれは先から先へとめぐって行くシャボン玉より軽い、夢より淡《うす》い空想の蔭になって動いているので、女にはまだハッキリと意識されていない。……そこへぱっと黒い影が障子を横切る。女ははっと思う。夢のシャボン玉がふっと消える。その下から客人が来る……という第六感がまざまざと現われる。そこで女は思わず云う……
「あれ鳥影がさした。誰か来るような気がする」
と……。けれども女は「第六感」というものが人間にある事を知らないから、すぐに平生《いつも》の常識に立ち帰って、
「……けども家《うち》の人が今ごろ自宅《うち》に居ないのは誰でも知っている筈だ。あんまり当てにはならない」
なんかと思い消してしまう。しかし女の第六感は承知しない。矢張り何だか気になるから縫物《しごと》を止《よ》して、それとなく茶器なぞを拭いていると、思いもかけぬ人が表口から、
「御免下さい。御無沙汰しました」
と這入って来る。
「まあ。矢っ張り本当だったわよ」
と女は思う。
然《しか》らば吾々の持っている職業的な第六感の動き方はどうかというと、これとは全く正反対である。神経を磨《みが》き澄まし、精神を張り切って、眼にも見えず、耳にも聞えない或る事を考え詰めている時に電光のように閃めき出すもので、その鋭くて、早くて、確かな事はとても無線電波なぞの及ぶものでない。吾ながら驚く程沢山の事実をほんの一瞬間に感じさせたり、又は遠方で起った仕事の手違いを的確に予知させたりするものである。私はずっと前からこの種の第六感の存在を固く信じているもので
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